僕の読書法
本文約3,100字 ・ 読了時間 約7分
あらすじ(AIが作成しました)
健全な視力を誇る著者が、自身の読書体験を通して、読書に対する姿勢や習慣を綴る。眼鏡の有無による独自の考察といった他愛のない己惚れを明かしつつ、勉強のための読書ではなく、書物のスタイルそのものを楽しむ読書法を提唱する。ノートへの抜き書きや結論の抽出をせず、気に入った書物を絶えず繰り返し読むことを自身の唯一の流儀とし、若い頃に読んだ古典を再読することの重要性や、書物との縁について独自の考えを述べる。
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僕は視力が健全である。これはありがたいものに思っている。むしろ己惚れている。
己惚れの種類も思えば数限りないものである。人は己惚れが無くてはさびしくて生きておれまい。よしんばそれが耳かきですくう程のささやかな己惚れにせよ、人はそのかけらにすがって群衆の波に漂うているのではなかろうか。果して小人だけが己惚れを持つものだろうか。己惚れは心卑しい愚者だけの持つものだろうか。そうとも思えない。例えば作家が著作集を出す時、後記というものを書くけれど、それは如何ほど謙遜してみたところで、ともかく上梓して世に出す以上、多少の己惚れが無くてはかなうまいと思うが、どうであろうか。恥しいものですと断ってみても、無理矢理本屋に原稿を持っていかれたと体裁の良い弁明をしてみても、出す以上は駄目である。よくよく恥しいという謙遜の美徳があれば、その人の芸術的良心にかけても、たれも本にすまい。人に読ませる積りで書いたのではないという原稿でも、結局は世に出ている。自分の死んだあと、全集を出すなと遺言した作家は何人いるだろうか。
謙遜は美徳であると知っていても、結局は己惚れの快感のもつ誘惑に負けてしまうのが、小人の浅ましさだろうか。謙遜の美徳すら己惚れから発するものだと、口の悪いラ・ロシュフコオあたりは言いそうである。僕とてご多分に洩れず、相応の己惚れである。けれどまた、己惚れをすっかり失ってしまって、うろうろすることも時にはある。鼻の先にぶら下げていた眼鏡を、群衆の波にもまれているうちに失ってしまって間誤まごする人のようになってしまうのだ。そんな時、僕は自分の視力に頼るほかはないのだが、幸い僕は眼が良い。はや僕は己惚れを取り戻すのである。
僕はこんな風に思うのである。森鴎外でも志賀直哉でも芥川龍之介でも横光利一でも川端康成でも小林秀雄でも頭脳優秀な作家は、皆眼鏡を掛けていない。それに比べると、眼鏡を掛けた作家は云々。僕は眼鏡を掛けていない。だから云々と己惚れるのである。