役者の一生
本文約15,300字 ・ 読了時間 約31分
あらすじ(AIが作成しました)
沢村源之助の生涯とその芸風をたどる。大阪に生まれ、幼くして沢村家の養子となった源之助は、五代目菊五郎の影響を受け、特に悪婆や遊女役で高い評価を得る。天賦の容貌に恵まれる一方、真剣な勉強不足という欠陥を抱えつつも、晩年には動きの少ない役で絶品とも評される境地を見せた。本書は、その足跡を辿り、彼が演劇史に残した印象や、弟子である河合武雄への芸の継承を含め、その役者としての存在意義を回顧・考察する。
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一
沢村源之助の亡くなったのは昭和十一年の四月であったと思う。それから丁度一年経って木村富子さんの「花影流水」という書物が出た。木村富子さん、即、錦花氏夫人は今の源之助の継母かに当る人であるから、よい書物の筈である。此には「演芸画報」に載った源之助晩年の芸談なる「青岳夜話」を其儘載せてある。これには又、彼の写真として意味のあるのを相当に択んで出している。成程、源之助は写真にうつるのが上手であった。と言うのは彼の姉が――縁のつづき合いは知らぬが、日本の写真商売にとっては、大先輩だった――伊井蓉峰の父親の北庭筑波の門に入って写真を習い、新富町に塙芳野という表徳で、写真屋を営んでいた。そういう関係で源之助は写真のぽうずを自分で、取ることが得意だったのである。
河合武雄が最近亡くなったので、これで河合の芸風も消えるであろうが、この人は源之助の芸の正統を新派畠に打ちこんで継いだ形になる人である。父親は地位は低かったが、源之助とよく一座した大谷馬十である。河合は若い時旧派の役者になろうとして(外の事情は知らぬ)大阪に奔り、その前後大凡源之助の影響を受けて了った。河合の動きや、きまり方には、晩年迄源之助の気合いの入れ方が働いていた。ともあれ源之助の格を一番正面から取っていたのは、河合であっただけに、源之助が死に、河合がこの世を去った今日、源之助の芸風の絶えて了うだろうと言うことが、しみじみ感じられる。
源之助の時代は四十年位続いたが、その間悪婆即、一口に言うと――毒婦ものが彼の芸として通った。ああいう芸は模倣し易い訣だが、どういう訣か、此きりで無くなり相だ。源之助の名を継いだ五代目はまだ若いし、先代市川松蔦よりは融通はきくが、まだその年にも達していない。器量はもっと、あれを悪くした顔で、悪婆ものには、第一条件が、欠けている。悪婆は背が高くなくても、そう見える姿で、顔が美しく、声の調子のよい、まともに行けば、江戸の下町女房を役どころとする風格を持っていなければならぬ。