好きな髷のことなど
本文約3,300字 ・ 読了時間 約7分
あらすじ(AIが作成しました)
明治から大正にかけての流行の変化を、自身の思い出と共に綴る随筆。画学校時代に学んだ茶の袴や、束髪・揚巻などの髪形の変遷、町で見かけた娘たちの髪形や服装を回想する。さらに、廃れゆく日本髷の美しさを説き、流行を追うだけでなく自分に合う装いを考える重要性を主張する。加えて、九条武子の気品ある美しさや、画家としての写生の作法についても触れ、女性が自ら美を作り出す気概を持つことの大切さを説く。
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茶の袴
私が画学校に行っていた時、学校の古顔に前田玉英さんがいました。その頃二十二、三ぐらいの年頃だったと思うが、画学校では女の生徒に茶の袴を穿かせることになっていたので、私らも茶の袴を穿き、袴を穿くのだからというので靴を買ってもらったことを覚えています。
束髪
その頃、というと明治二十一年頃、えらい何も彼も西洋が流行った頃で、束髪がちらほら出かけていました。後ろを円く三ツ組に編んで網をかぶせ、前髪を切って下げるのが最初に流行った型でした。玉英さんはそうした流行の風をしていられた。私も束髪を結ったことがあります。それに薔薇の花簪などしたものでした。
着物の柄
着物には黒襟がかかっていました。柄は細かい地味なのが流行りまして、十三詣りの時に着た着物を、私は今でも着ていますが、結構可笑しくなく着られます。着物の柄は、後になればなるほど荒く華美になって来ています――一体がそんな風でした。
黄八丈に黒縮緬
今から思えばいくらでも可笑しいほどの思い出があります。私の二十二、三の頃、明治三十年頃になりますと、その頃男の人が、黄八丈の着物に黒縮緬の羽織を着ることが流行りました。松年先生や景年さんなど、皆そうした風をしていられたものです。
はわせと桃割
私の家は四条通りの今の万養軒のあるところで葉茶屋をしていましたが、私の十九の時火事で焼けました。粉本や写生など皆焼いてしまいました。その向いの、今の今井八方堂さんのお店が、小町紅でした。お店に人が並んで、小皿にせっせと紅を刷いていると、いつも田舎から出て来た人が買いに集っていたものです。町の娘さんたちも買いに来ました。その頃の娘さんたちがよくはわせに結っていたのを覚えています。はわせというのは、今の鬘下地の輪毛を大きくしたもので、鬘下地に較べるとズッと上品なものです。
その頃桃割を結っている娘さんもありました。桃割もいいものだけれど、はわせに較べるとどこか味がない気がします。
揚巻