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TORENDIA

画学校時代

本文約2,400字 ・ 読了時間 約5分

あらすじ(AIが作成しました)

十四歳で京都府立画学校に入学した著者は、北宗の鈴木松年先生に師事する。当時、画学校のカリキュラムは段階的に進む規則であったが、人物画を熱望する著者は先生の私塾にも通い、研鑽を積む。その後、学校内の改革による教師陣の辞職に伴い、自身も学校を離れて塾生となる。美術の参考資料が極めて限られていた時代背景の中、博物館や展覧会へ足を運び、懸命に模写を繰り返す修行の日々と、当時の絵画修業の様子を回想として綴る。

上村松園

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🎧 画学校時代 / 朗読音声: VOICEVOX:春日部つむぎ

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十三年の年に小学校を卒業し、翌年十四歳の春、京都府立画学校へ入学しました。

明治二十一年のことでありますから、女が絵の学校へはいるなんて、と言って叔父がさかんに母を責めました。しかし母は、

「つうさんの好きな道やもん」

と言って受けつけなかったのです。

当時、校舎は今の京都ホテルのところにありまして、その周囲はひろい空地で、いちめんに花畠になっていました。

それで花屋が画学校の前にありましたので、よく写生用の花を買ったり、買わずに、じかに花畠へ行って写生したりしたものです。

そのころの画学校は実にのんびりとしていて、別に画家になる目的でなくとも、なんとなく入学して……と言った人もかなりいました。

「うちの子は身体が弱いよって、絵でも習わそうか」

というようなのもありました。

今の画家は余程の腕の力と健康がなくてはつとまりませんが、当時は絵描きに対しては一般の目はその程度の、

「遊び仕事」

ぐらいに考えていたもののようでした。ですから、そのような考えかたのなかから熱のあるもえ上るような芸術家が生まれたり、また生命のある芸術作品を生み出されることもまれで当時の画学校卒業生のなかから後に名をあげた人は殆んどありません。

校長は土手町の府立第一女学校校長吉田秀穀さんで、画学校の校長を兼ねていられたのです。

教室は、

東宗

西宗

南宗

北宗

の四つに岐れていました。まるで仏教の学校のように感じます。東宗北宗などと言いますと……

東宗というのは柔かい四条派で、主任の先生は望月玉泉さん。

西宗というのは、新しくぼっこうした西洋画つまり油絵で、主任が田村宗立先生。

南宗は文人画で主任が巨勢小石先生。

北宗は力のある四条派で、主任が鈴木松年先生という、一流の大家ばかりでした。

私は北宗に入り、鈴木松年先生に教わったのであります。

最初は一枝ものと言って、椿や梅や木蓮などの花を描いた、八つ折の唐紙二十五枚綴りのお手本を渡されると、それを手本として描いた絵を、それぞれの先生の許へ差し出します。それを先生に直していただいて、さらにもう一度清書し、二十五枚全部試験に通りますと、六級から五級に進むのです。

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