本文へ移動
TORENDIA

利根川の鮎

本文約4,800字 ・ 読了時間 約10分

あらすじ(AIが作成しました)

流浪と無為な日々を過ごし六十歳を迎えた著者が、自らの人生を顧みつつ、故郷の上州を流れる利根川と、そこに生きた若鮎や鱒、そして過ぎ去った日々の記憶を綴る随筆。かつての清流の風景や、父母、妻、親しい人々との思い出を辿り、今や開発によって変貌した川の姿を惜しみながら、記憶の中にある山川の情景とともに生きる自身の人生観を静かに語る。

佐藤垢石

速度
🎧 利根川の鮎 / 朗読音声: VOICEVOX:もち子さん

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 6

人生の旅

これは、私が十八、九歳のころ考えたことである。そして今もなお、それを想っているのである。

六十歳といえば、人生の峠の頂を過ぎた。しかし、まだ我が人生の旅は遠くいつまでもいつまでも寂しく続いてゆくであろう。根も張りも尽き果てた疲れを負って歩く、灰色の路の我が人生の旅の行方を想うと、堪え難く寂しく悲しい。

前途に希望はないのである。我が力を顧みれば、大きな望みを持てないのが当然であると思う。五十歳くらいまでは、前途に何か自分を待っているような気持ちがあった。絢爛たる花園が、未知の将来に明るく優麗な風景を展げているような希望を抱いていたのであるけれど、この一両年このかた私の前途には、なにも待っていないのを、はっきり見きわめたのである。行けども行けども、灰色の路を歩こう。

だが、私は生に諦めをつけてはいない。自殺も思わぬ。ただ、生きているがままに生きてゆこうと思う。働かねば餓死するのは当然であるから働こうと思うだけである。つまり、私は生ける屍と同じであるのである。

顧みると、六十年という人生は、短いようでもあり長いようでもあった。けれど、その六十年に何をなしたのであろう。親不孝と流浪と懶惰と遊酒と、そのほかに何をなしたであろう。まことに、取るに足らぬ人生であった。有害無益の人生であった。実に意味なき人生であった。思えば思うほど、悲しき寂しき人生であった。学びに勉めず、仕事に励まず、蕩兒の姿が私の過去のすべてであった。世の中に対しては言うまでもないが、身近なもの、親のため、妻のため、子のため、友のために何一つなしてこなかったではないか。

痛恨きわまりなき、我が人生であったのである。

しかしながら、こうした悲しい想い出のうち、僅かに私を慰めてくれるものがある。それを想い出し、頭に夢を繰り返す時だけ、私の悲痛は救われるのである。というのは、過ぎし私が経てきた長い年月にわたる「水と山」の巡礼である。

私は、私に幼いときからの「水と山」の巡礼の想い出がなかったならば、私の人生は地獄の苛みであったであろう。私は、過ぎし水と山の旅を追想しては、貧困な人生にせめて潤いを求めているのである。

佐藤垢石の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本