顔
本文約15,900字 ・ 読了時間 約32分
あらすじ(AIが作成しました)
四月のはじめ、海浜の寂れたホテルを舞台に、滞在する男女や客たちが織りなす人間模様を描く。長年船で働いたのちにホテルへ勤める女中頭の菅沼るいは、客たちとの対話を通して自身の過去や抱える複雑な心境を吐露する。新婚旅行客や若者、夫の帰りを待つ夫人らが入れ替わり立ち替わり顔を見せる中、静かな環境の中でそれぞれの内面が交錯し、物語はホテルの日常的な風景と客たちの静かな交流を軸に展開する。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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男
女
菅沼るい
京野精一
土屋園子
ある海浜の寂れたホテル
四月のはじめ。晴れた静かな夕刻。
[#改ページ]
舞台は、ホールを兼ねただゞつ広い日光室の一隅。――正面、硝子戸を距てて、やゝ遠く別棟の食堂が見え、左手は、庭の芝生へ降りる扉。右手、いつぱいに奥へあがる階段――二階は客室である。その階段の降り口から、右へ、玄関へ続く薄暗い別のホール。
窓ぎはに、整然と、椅子テーブルが並び、テーブルには、鉢植の草花。室の中央に、ピンポン台。
階段の横に、大型の電気蓄音機。
一組の男女が、階段を降りて来る。
男は四十五六、女は二十八九、夫婦のやうにも見え、夫婦でないやうにも見える。男は頑丈な体格の、苦学生上りの役人とでも云ひたい風貌を備へ、女は、素人風をした商売女と云へば云へよう。二人は、一つのテーブルを夾んで腰をおろす。
室内は、外が暗くなるのにつれて暗くなる。やがて、食堂に燈火がつく。
[#改ページ]
女 あなた、このホテルへははじめてぢやないのね。 男 どうして……。 女 でも、あんまり勝手をよく知つてらつしやるから……。それに……。 男 海がどつちに見えるかぐらゐ、すぐわかるさ。 女 さうぢやないんですよ。あの、女中頭つていふのかしら、部屋を案内したお婆さんね。なんだか、馴れ馴れしい口の利き方をしてたぢやありませんか。 男 あゝ、あゝいふ奴はよくゐるよ。いや、宿屋には限らない。客商売つていふもんは、そこが骨さ。初めて買物をした店で、毎度ありがたうつて云ふぢやないか。 女 …………。 男 二人とも知らないところへ行きたいといふから、わざわざこんなところへ出かけて来たんだ。それほど名案でもなかつた。時節外れの海岸は、まあ、こんなもんさ。 女 ほんとに、あなたつて、どうしてさう、方々をお歩きになつたの? あたしが行きたいと思ふところを、みんな知つてるつておつしやるから、いやになるわ。 男 お前は、また、どうして、さう、何処も彼処も知らないんだ?
廊下で鈴を鳴らす音。食堂が開いた報らせである。