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TORENDIA

死の復讐

本文約7,500字 ・ 読了時間 約15分

あらすじ(AIが作成しました)

五月の南露西亜。放浪の若者アルブズフは、一夜の宿を借りた老人イサクの殺害容疑で逮捕される。現場から拳銃が見つかり、状況証拠から若者は死刑に処される。しかし数ヶ月後、廃屋となった現場の耕地に「チホンが俺を殺したのだ」という花文字が浮かび上がる。死してなお怨みを晴らそうとする老人の執念と、宿敵チホンの告白を通じ、事件の驚くべき真相を描く。

国枝史郎

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一

季節は五月。花の盛。南方露西亜のドン河の岸は波斯毛氈でも敷き詰めたように諸々の花が咲いている。ジキタリスの紫の花弁は王冠につけた星のように曠野の中で輝いているし、紅玉色をした石竹の光は恰度陸上の珊瑚のように緑草の浪に揺れながら陽に向かって微笑を投げている。

若い一人の放浪者がドン河に添うて上流の方へ疲労れた足付で歩いている。

蜜を漁る蜂の唸。藪で啼いている鶯の声。空の大海に漂いながら絶え間無くうたう雲雀の歌など、地にも天にも春を言祝ぐ喜びの声が充ち充ちているが、若い放浪者の顔付には憂鬱ばかりが巣食っている。

どっちを見ても曠野である。ところどころに部落がある。それは哥薩克の部落であって鶏犬の声や馬の嘶きや若い男女の笑声などが風に運ばれて聞えて来る。

若い放浪者はドン河に添うて矢張り疲労れた足どりで何処までも何処までも歩いて行く。そして其顔には恐怖と憂鬱が執念く巣食っているのであった。

やがて陽が落ちて夜となった。

冴え切った空には星の群が猫眼石のような変化ある光を互替に投げ合って夜の神秘を囁くのを羨ましくでも思ったのか、十六夜の月が野の地平線へ黄金の盆のような顔を出した。

ドン河の水は月光に射られて銀箔のように白く輝き、曠野は一面に露でも下りたように鼠色に朦朧と光っている。

ぽかぽかと暖い夜の空気……甘く鼻を搏つ野草の匂……雌雄の夜烏の睦言……。

南露西亜の夜の風情は何んと美しくあることよ! 併し美しいこの光景も若い放浪者には無価値と見えて目を上げて野面を見ようともしない。彼は疲労れた足どりでノロノロと歩くばかりである。

どこまで歩くつもりだろう。どこから歩いて来たのだろう。夜中彷徨うつもりかしら。大分疲労れているらしいのに。もし泊まろうと思うなら哥薩克の家を叩くがいい。彼等は喜んで泊めるだろう。それが彼等の道徳なのだ。

しかし若者は部落まで行って家を叩こうともしなかった。今にも倒れそうな足どりで彼はノロノロと歩いて行く。

哥薩克の部落を通り過ぎて涯も知れない曠野の姿が若者の眼前にあらわれた時には、流石に彼も心細くなったか、小丘の上に佇んで茫然とあたりを見廻わした。

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