村で見た黒川能
本文約1,600字 ・ 読了時間 約4分
あらすじ(AIが作成しました)
黒川村で偶然目にした能や狂言に深い感銘を受けた著者が、東京公演に対する能楽批評家の反応や世間の評価を交えつつ、この芸能が持つ独自の価値を論じる。能本来の姿を保持しながら現代的な要素も併せ持つこの芸能は、上座と下座の組織により村人の生活や精神にも良い影響を及ぼしている。現代の能楽が上品化へと向かう中で、演芸としての側面も持つこの地方芸能が提示する新しい方向性や可能性について考察を綴る。
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黒川能東京公演に先だつこと二个月、私は偶然あの村(黒川村)に行き合はせて能及び狂言を見ることが出来た。(本誌前号誌上で話した通りである。)そこで上京公演の日も近いといふことを聞いた時、私は、これが果して東京の目の肥えた、しかも高ぶつた能の常連に私共の得たやうな深い感銘や同感を持たせられるかどうかと、黒川村の舞台、能役者その他の敬虔な気分に刺戟された共感から危んだ。しかし東京公演に対する能楽批評家の批評を聞いて、すべてが杞憂に過ぎなかつたことを知つて、私は黒川能のために大いに喜んだ。たゞし能楽としてだけ見るのではない我々、つまり日本芸能全体の上に能楽を見、かつ、他の芸能と同じやうに扱つてゐる我々にとつては、多少不満足な批評も耳にしないではなかつた。
それは第一に狂言が不評判だつたことで、私共はどちらかといへば、上座下座両座の大夫その他が努力して伝統を保つてゐる能それ自体よりも、実は狂言の方を高く評価すべきだと思つてゐたからである。これは黒川能の人々にとつては名誉でないかも知れないが、地方の芸能或は演劇的傾向のあるものとしては当然であり、意味があるのである。黒川能が本道に生きて、少くとも現代に近いものとして、役者にも村の人にも庄内人士にも同感を起し、なほ多少でも伸びて行くのは狂言の方にある筈だと思つた。ところが東京では、狂言に出てくる方言、或は方言的発音に好感を持たなかつたやうに聞いてゐる。これは狂言の性質上、たしかに東京の能楽愛好家の方が間違つてゐると思ふ。