芸の壮大さ
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あらすじ(AIが作成しました)
東京劇場の舞台で「先代萩」を観劇した折口信夫が、芸の力と芸術の未来を綴る。山城少掾や文五郎ら演者の技量を詳細に評し、人々の情や伝統の重みが織りなす人形浄瑠璃の爛漫たる壮大性を描く。また、戦争を経て芸術の崩壊を危惧していた著者が、舞台を囲む人々の熱意や演者の協力から、この時代の苦難を乗り越える希望を見出す過程を記す。渋味を尊ぶ鑑賞癖への苦言を呈しつつ、古典の真価と文楽が持つ有望な可能性について論じる。
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日本の大貴族であつた人が、東京劇場の先代萩政岡忠義の段を見てをられた。その真うしろの席に偶然見物してゐたのが私だ。七日のことだつた。山城少掾が語り、文五郎が政岡まゝたきの人形を使つてゐる。大貴族なるが故に、今までほしいまゝにすることの許されなかつた、芸の喜びにふけつてゐる人の心が、時々私の胸に触れて来た。この国の歴史には、さして高くない民たちが、権勢の擁護もなく、これだけの驚くべき芸を築きあげてゐた。思ひがけない戦争が過ぎて、これ等「民の芸」に持つた自信を根柢から覆した。
芸術の崩壊に対する責任だけは少くとも負ふ者が出てくれねば、気持ちの持つて行きどころがない。かういふ純な慨きを、この大貴族の一人も抱いて観てゐるのではないかといふ気がした。
だが見てゐる中に、この憂ひは次第に解消して行つた。太陽が思ひ設けぬ高さに到達してゐた。今度の帯屋を聞いてゐて、人情に拘泥しないで、人情に陥没する自在性を感じた。また亡くなつた土佐太夫晩年の自覚し過ぎた品位が伊達に出て来ないのは、却て幸福である。この人の持つてゐる安易と甘美とが今の若い世代のこの古典に対する無自覚を啓発する。竹の間はその意味で人を悦ばした。少掾の柄と研究慾を襲いだ綱太夫は一番の完成を信じてよい芸格を示した。あれだけの重忠に圧倒せられない阿古屋。しかもこのつやはどうだ。殊に胡弓の責めに入つてから、紋十郎の手すりと相触れる芸の深さ。相俟つて誠に「吉野立田の花紅葉よりも」芸の爛漫たる壮大性を示した。三曲の中これに重点を置いたのは、正確な解釈で、山城の伝統のよさを思はせた。亡き栄三は惜しんでも余りある人だが、これをあげる為に、文五郎をおとしたこれまでの傾向は宜しくない。
渋味が常に「花」より上にあるといふ鑑賞癖だけは更めねば、末代まで誤つた評価を伝へる虞れがある。