TRENDIA CLASSIC

夏芝居

折口信夫

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真夏の天地は、昼も夜も、まことに澄みきつた寂しさである。日の光りの照り極まつた真昼の街衢に、電信柱のおとす影。どうかすると、月の夜を思はせる静けさの極みである。夜は又夜で、白昼の如く澄みきつた道の上のわづかな陰が、道をしへでも飛び立ちさうな錯覚を誘ふ気を起させる。世の中が昔のまゝだつたら、都会も田舎も今はかう言ふしみ/″\した寂しさの感じられる夏の最中である。かう言ふ季節の、身に沁みた印象が、はなやかな舞台を廻り道具にして夏の芝居にひそかな、どうかすれば幽暗な世界を出現させようとするものなんだらうか――。夏の歌舞妓の舞台出入りの単純にして、ものゝさびしさ。かうした心の奥に待ち迎へるものがあつて、単純にして爽快に、幽暗であつて寂寥な夏狂言を呼び起したのだ、と言ふのだつたら、必しもその心理的根拠は、否むわけにはいかない。だが、これに限らず、さうした心の底の印象だけでは、人事は動いては居なかつた。

其に今一つ、もつと素朴にものを訣つてゐる人たちがある。「鯉つかみ」のやうな水芸に近い狂言、「山帰り」のやうな身軽な季節の所作事の一団があるのだから、「四谷怪談」だの「累物語」だの「小幡小平次」「皿屋敷」だの、「笠森おせん」なり、新しい所では「敷島譚」なり「乳房榎」なり「牡丹燈籠」なり、皆身軽で、経費が尠くて、水のふんだんに使はれる場面もあるのだもの。何もかも脱ぎ棄てたいと言ふ苦しい気持ちを救ふ為に、怪談物が行はれるのも不思議はない。五月興行から盆狂言へと飛ぶ、小屋のあそんでゐる間に、廉価の芝居を打つたのが起りだと言ふのである。聞いて見れば別に、其をかれこれ言ふ程の問題でもない。だが其は結果であつて、夏芝居に怪談物の出る理由にはならないやうだ。

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