「マルテ・ロオリッツ・ブリッゲの手記」から
本文約11,700字 ・ 読了時間 約24分
あらすじ(AIが作成しました)
パリで暮らす青年が、街の喧騒や病院の気配、人々の顔の変容を鋭く観察し、自らの内面的な変化と「見る稽古」を綴る。住まいを通り抜ける電車の轟音、恐ろしい静寂、亡き母の部屋を荒らす犬たち、あるいはテュイルリイ公園の光景など、都市の断片を克明に描き出す。過去の記憶が薄れ、自己の変容に戸惑いつつも、未知の対象をありのままに視覚として捉えようとする孤独な精神の軌跡が、日々の断片的な記録を通じて浮かび上がる。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
九月十一日、トゥリエ街にて 一體、此處へは人々は生きるためにやつて來るのだらうか? 寧ろ、此處は死場所なのだと思つた方がよくはないのか知らん? 私はいま其處から追ひ出されてきた。私はいくつも病院を見た。私は一人の男がよろめき、卒倒するのを見た。人々は彼のまはりに集り、私にその餘のものを見ないやうにさせてくれた。私は姙娠してゐる女を見た。彼女は高い、暑い煉瓦塀にそうて重苦しさうに歩いてゐた。まだそれが其處にあるかどうかを確めるためのやうに、ときどきその煉瓦塀を手搜りしながら。さう、それはまだ其處にある。その向うにあるのは何かしら? 私は私の地圖の上を搜す。産科病院だ。さうか、そこでお産をしようと云ふのだな。うまく行くといいが……。もうすこし先きの、聖ジャック街には、圓屋根のある大きな建物がある。地圖で見ると、Val de Grce(衞戍病院)。私は特にそんな名前なんか知る必要はなかつたのだ。しかしそんなことはどうでも構はない。小路が四方八方から臭ひはじめる。私にそれが嗅ぎ分けられたところでは、それはヨオドフォルムの匂、揚林檎の油の匂、恐怖の匂だ。夏になると町中が匂ふ。それから私は一軒の異樣な、盲目のやうな家を見た。それは地圖には出てゐなかつた。しかし扉の上にまだ充分に讀めるやうに Asile de nuit と記されてあつた。玄關の脇に、宿泊料が書き出されてあつた。それは高價ではなかつた。
そしてそれから? 停つてゐる乳母車の中に一人の子供を私は見た。子供は肥つてゐて、蒼白く、額に目に見えるくらゐの吹出物ができてゐた。それは明らかに全治してゐて、もう痛まないらしかつた。子供は眠つてゐた。口を開けて。そしてヨオドフォルムや、揚林檎の油や、恐怖の匂を吸ひ込んでゐた。まあかういつたところなのだつた。肝腎なことは、人々が其處で暮らしてゐるといふことだ。それは一番肝腎なことだ。