TRENDIA CLASSIC

リルケ書翰(ロダン宛)

ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke

1 / 2

一九〇二年の秋、巴里にはじめて出かけて行つて、ロダンに親しく接しつつ、遂にロダン論を書き上げ、伯林の一書肆より上梓せしめた後、やや健康を害したリルケは、伊太利ピサの近くのヴィアレジオに赴いて(三月)、靜養してゐた。ヴィアレジオは海に面した、松林の中に居睡りしてゐるやうな、靜かな小さな村であつた。その松林の向うにはピサの町が見えるのであつた。――その村からリルケはロダンに宛てて二通の手紙を書いてゐるが、最初の三月二十七日日付のものは、「オオギュスト・ロダン」が漸く出來たので、それを當時巴里に居た彼の妻クララにロダンの許へ屆けさすやうにした、その折の手紙である。今度の本では自分の言ひたかつた事のほんの一部分しか言へなかつた事、近き将來において一層の明確さと力強さとを以つて語りたい希望などを述べたものである。(彼は一九〇七年それを増補した。)――ロダンはそれに對して慇懃な禮状を出したらしい。ヴィアレジオからの二番目の手紙、即ち、本誌所載の手紙は、それに對するリルケの返事である。ざつとそれを譯して見ると、――

一九〇三年四月二十五日、伊太利ヴィアレジオ(ピサ近郊)、オテル・フロオテンスにて。

わが師よ、

貴方が少からぬ御好意をもつて私の本をお受取りなさつたと仰言られたあの四月六日日付のお手紙は、私を非常に幸福にさせたことを、今なほ貴方に申し上げたうございます。

私は又、貴方が私の健康をお祈り下さつたことを感謝いたさねばなりませぬ。此處に參つてから私はいくぶん元氣になりました。まだ完全に恢復して居らぬやうな氣のいたすのは、多分、近頃の惡い陽氣のせゐでありませう、それには當地で、他の誰でもと同樣苦しみました。

が、私は只今巴里の晩春を見たいものだと願つて居ります、私は、歸り支度をしてゐるので御座いますから。ジェノヴァにもう一日居て、それから、あまりその名聲を知られてゐない偉大な Claus Sluter(譯註十四世紀の彫刻家)の作品を鑑賞するためディジョンにちよつと立寄る積りで居ります。

ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilkeの他の作品

或女友達への手紙
ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke
旗手クリストフ・リルケ抄
ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke
さらにふたたび
ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke
ドゥイノ悲歌
ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke
トレドの風景
ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke
巴里の手紙
ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke
ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke
ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke
「マルテ・ロオリッツ・ブリッゲの手記」から
ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke
ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke
駆落
ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke
家常茶飯 附・現代思想
ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke