水郷異聞
本文約17,300字 ・ 読了時間 約35分
あらすじ(AIが作成しました)
講演のため水郷を訪れた思想家の山根省三は、旅館での食事中に幻聴や見知らぬ女の影を感じ、不可解な体験に包まれる。かつてこの地で出会った若い女の記憶が蘇る中、省三は誘われるままに夜の川で不思議な光を放つ舟へ乗り込む。水郷の情緒的な風景の中で、現実と幻想が混ざり合う怪異的な出来事を描き出し、過去の影に翻弄される男の姿と、その先の不可思議な運命を綴る物語である。
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一
山根省三は洋服を宿の浴衣に着替へて投げ出すやうに疲れた体を横に寝かし、片手で肱枕をしながら煙草を飲みだした。その朝東京の自宅を出てから十二時過ぎに到着してみると、講演の主催者や土地の有志が停車場に待つてゐてこの旅館に案内するので、ひと休みした上で、二時から開催した公会堂の半数以上は若い男女からなつた聴講者に向つて、三時間近く、近代思想に関する講演をやつた若い思想家は、その夜の八時頃にも十一時頃にも東京行きの汽車があつたが、一泊して雑誌へ書くことになつてゐる思想を纒めようと思つて、せめて旅館までゞも送らうと云ふ主催者を無理から謝絶り、町の中を流れた泥溝の蘆の青葉に夕陽の顫へてゐるのを見ながら帰つて来たところであつた。
それは静かな夕暮であつた。ゆつくりゆつくりと吹かす煙草の煙が白い円い輪をこしらへて、それが窓の障子の方へ上斜に繋がつて浮いて行つた。その障子には黄色な陽光がからまつて生物のやうにちら/\と動いてゐた。省三はその日公会堂で話した恋愛に関する議論を思ひ浮べてそれを吟味してゐた。彼が雑誌へ書かうとするのは某博士の書いた『恋愛過重の弊』と云ふ論文に対する反駁であつた。
「御飯を持つてまいりました、」
女中の声がするので省三は眼をやつた。二十歳ぐらいの受け持ちの女中が膳を持つて来てゐた。
「飯か、たべよう、」
省三は眼の前にある煙草盆へ煙草の吸い殻を差してから起きあがつたが、脇の下に敷いてゐた蒲団に気が付いてそれを持つて膳の前へ行つた。
「御酒は如何でございます、」
女中は廊下まで持つて来てあつた黒い飯鉢と鉄瓶を取つて来たところであつた。
「私は酒を飲まない方でね、」
省三はかう云ふてから白い赤味を帯びた顔で笑つてみせた。
「それでは、すぐ、」
女中は飯をついで出した。省三はそれを受け取つて食ひながらこんな世間的なことはつまらんことだが、こんな場合に酒の一合でも飲めると脹みのある食事が出来るだらうと思ひ思ひ箸を動かした。
「今日は長いこと御演説をなされたさうで、お疲れでございませう、」