墨子は周秦の間に於て孔子老子の學派に對峙した鬱然たる一大學派の創始者である。
墨子の學の大に一時に勢力のあつたことは孔子系の孟子荀子等が之を駁撃してゐるのでも明白で、輕視して置けぬほどに當世に威を有したればこそ孟子荀子等がこれに對して筆舌を勞したのである。それのみならず人間の善惡を超越し是非を忘却するやうなことを理想としたかの如き莊周でさへも墨家に論及し、それから又手嚴しい法治論者の韓非までも墨家を儒家と列べて論じてゐる。此等の事實は皆墨子の學が少からざる力を當時に有してゐたことの傍證であつて、秦以後の書の孔叢子、淮南子、史記、漢書、七略等に見えてゐることと、その前の尸子、晏子春秋、呂覽等に散見してゐることとを除いても、墨子の本書に、墨子の弟子禽滑釐等三百餘人が墨子の道の爲に守禦の器を持して宋の爲に楚を防がんとしたことが、魯問篇に見えてゐるし、又墨子の弟子の公尚過といふものは越王に優遇され、越王は墨子を故の呉の地方五百里を以て封ぜんことを申出し、又楚の惠王、魯陽文君等は墨子を崇敬し、衞、宋、魯等の君も墨子を尊んだことは本書の各篇に見え、墨子の弟子は禽滑釐を首として、高石子、縣子碩、耕柱子、魏越、管黔敖、高孫子、治徒娯、跌鼻、曹公子、勝綽、彭輕生、孟山譽、王子閭等は皆墨子に道を學び、或は道を問うたものであることは本書に見え、漢書藝文志、呂覽等によれば、隨巣子、胡非子等は墨子の弟子で書を著はし、禽滑釐の弟子には許犯、索盧があり、許犯の弟子には田繋があり、胡非子の弟子には屈將子があり、其他、韓非子、莊子、呂覽等によれば、墨子の學系には、田子、相里勤、相夫子、陵子、苦獲、相里氏の弟子の五侯子、それから孟勝、田襄子、腹※[#「享+(廣-广)」、U+2A3C6、174-5]、徐弱、謝子、唐姑果等を指摘し得る。是の如くに墨子の弟子又は再傳三傳の弟子を二千年前の昔に指摘し得ることは、墨子の道の盛行したことを語るもので無くて何であらう。