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TORENDIA

上野

本文約8,300字 ・ 読了時間 約17分

あらすじ(AIが作成しました)

永井荷風は、震災後の変容と歴史的変遷を辿りつつ、上野公園と周辺の不忍池界隈の景観を綴る。明治初期の公園開設から、かつて花街として隆盛した根津の遊廓、小西湖と雅称された池畔の文人墨客の足跡などを文献資料や体験を基に記す。公園化に伴う開発や鉄道停車場の設置が往時の風趣を損なってきた現状を指摘し、都市のあり方と理想的な公園のあり方を考察する。

永井荷風

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震災の後上野の公園も日に日に旧観を改めつつある。まず山王台東側の崖に繁っていた樹木の悉く焼き払われた後、崖も亦その麓をめぐる道路の取ひろげに削り去られ、セメントを以て固められたので、広小路のこなたから眺望する時、公園入口の趣は今までとは全く異るようになった。池の端仲町の池に臨んだ裏通も亦柳の並木の一株も残らず燬かれてしまった後、池と道路との間に在った溝渠は埋められて、新に広い街路が開通せられた。この溝渠には曾て月見橋とか雪見橋とか呼ばれた小さな橋が幾条もかけられていたのであるが、それ等旧時の光景は今はわずかに小林清親の風景板画に於てのみ之を見るものとなった。

池の端を描いた清親の板画は雪に埋れた枯葦の間から湖心遥に一点の花かとも見える弁財天の赤い祠を望むところ、一人の芸者が箱屋を伴い吹雪に傘をつぼめながら柳のかげなる石橋を渡って行く景である。この板画の制作せられたのは明治十二三年のころであろう。当時池之端数寄屋町の芸者は新柳二橋の妓と頡頏して其品致を下さなかった。さればこの時代に在って上野の風景を記述した詩文雑著のたぐいにして数寄屋町の妓院に説き及ばないものは殆無い。清親の風景板画に雪中の池を描いて之に妓を配合せしめたのも蓋偶然ではない。

上野の始て公園地となされたのは看雨隠士なる人の著した東京地理沿革誌に従えば明治六年某月である。明治十年に至って始て内国勧業博覧会がこの公園に開催せられた。当時上野なる新公園の状況を記述するもの箕作秋坪の戯著小西湖佳話にまさるものはあるまい。

箕作秋坪は蘭学の大家である。旧幕府の時開成所の教官となり、又外国奉行の通訳官となり、両度欧洲に渡航した。維新の後私塾を開いて生徒を教授し、後に東京学士会院会員に推挙せられ、ついで東京教育博物館長また東京図書館長に任ぜられ、明治十九年十二月三日享年六十三で歿した。秋坪は旧幕府の時より成島柳北と親しかったので、その戯著小西湖佳話は柳北の編輯する花月新誌の第四十四号からその誌上に連載せられた。佳話の初にまず公園の勝概が述べてある。わたくしは例によって原文を次の如く訓み下す。

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