草紅葉
本文約5,700字 ・ 読了時間 約12分
あらすじ(AIが作成しました)
東葛飾で仮住まいする著者が、戦災で失われた浅草の町と人々に思いを馳せる随筆。大道具の頭や踊子の栄子、楽屋の風呂番など、かつてオペラ館で交流した人々の追憶を綴る。江戸からの伝統が残っていた繁華街の情景や、芸人たちの営みが空襲で消え去った事実を淡々と記す。滅びた故郷を前に、再会を望む郷愁の念すら抱けなくなった作者の喪失感と、止まらぬ時代の移ろいに対する哀愁を深遠な筆致で描き出している。
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東葛飾の草深いあたりに仮住いしてから、風のたよりに時折東京の事を耳にすることもあるようになった。
わたくしの知っていた人たちの中で兵火のために命を失ったものは大抵浅草の町中に住み公園の興行ものに関与っていた人ばかりである。
大正十二年の震災にも焼けなかった観世音の御堂さえこの度はわけもなく灰になってしまったほどであるから、火勢の猛烈であったことは、三月九日の夜は同じでも、わたくしの家の焼けた山の手の麻布あたりとは比較にならなかったものらしい。その夜わたくしは、前々から諦めはつけていた事でもあり、随分悠然として自分の家と蔵書の焼け失せるのを見定めてから、なお夜の明け放れるまで近隣の人たちと共に話をしていたくらいで、眉も焦さず焼けど一ツせずに済んだ。言わば余裕頗る綽々としたそういう幸福な遭難者には、浅草で死んだ人たちの最期は話して聞かされても、はっきり会得することができない位である。しかし事実は事実として受取らなければならない。その夜を限りその姿形が、生残った人たちの目から消え去ったまま、一年あまりの月日が過ぎても、二度と現れて来ないとなれば、その人たちの最早やこの世にいないことだけは確だと思わなければなるまい。
その頃、幾年となく、黒衣の帯に金槌をさし、オペラ館の舞台に背景の飾附をしていた年の頃は五十前後の親方がいた。眼の細い、身丈の低くからぬ、丈夫そうな爺さんであった。浅草という土地がら、大道具という職業がらには似もつかず、物事が手荒でなく、口のききようも至極穏かであったので、舞台の仕事がすんで、黒い仕事着を渋い好みの着物に着かえ、夏は鼠色の半コート、冬は角袖茶色のコートを襲ねたりすると、実直な商人としか見えなかった。大分禿げ上った頭には帽子を冠らず、下駄はいつも鼻緒のゆるんでいないらしいのを突掛けたのは、江戸ッ子特有の嗜みであろう。仲間の職人より先に一人すたすたと千束町の住家へ帰って行く。その様子合から酒も飲まなかったらしい。