北穂天狗の思い出
本文約700字 ・ 読了時間 約2分
あらすじ(AIが作成しました)
信州北穂の天狗の湯へ向かう山道での旅の記憶を綴る。一行は松篁ら数名と共に、足が弱い著者が馬の背に設えた特設の座席に乗り、落葉松や白樺の林を抜けてゆく。道中、山桜や山吹が咲き乱れ、鶯や啄木鳥の声が響く中、絵を好む馬子ののんびりとした語らいが重なる。残雪と春の花が混在する山々の閑寂な情景や、湧き水を飲む馬の様子など、麓を出てから二時間かけて目的地である天狗の湯へ到着するまでの道のりの風趣を描く。
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懐しまれるのは去年の六月信州北穂の天狗の湯へ旅をしたときの思い出である。
立夏過ぎ一日二日、一行は松篁はじめ数人、私は足が弱いので山腹から馬の背をかりることにした。馬の背の片側にお炬燵のやぐらを結えつけ座蒲団を敷いて私がはいり、一方には重さの調節をとるようにいろいろの荷物をつけている、自分ながら一寸ほほえましい古雅な図である。馬子もちょっと風変りな男であった。馬はゆっくり落葉松や白樺の林の間をぬって進む。思いなしかわざと意地悪く道の端を歩くかのように、足どりにつれてグラリと揺られる私の身体は、何時も熊笹の生い上った深い山の傾斜の上につき出されているのでヒヤヒヤさせられた。ここかしこに山桜や山吹が咲きこぼれ、鶯の声や啄木鳥のくちばしの音が澄んできこえる。馬子は時々思いついたように馬を追いたてながらのんびりした調子で話しかけている。非常に絵が好きらしく「東京からはよく絵かきさんが来る」とか「京都の方からもいろんな人が来るし、宇田荻邨さんや中村岳陵さんなぞも来たことがある」などとなかなかよく知っている。山道にはところどころに清水が湧き出ているが、こうした処にゆくと馬はきまって立止りゆっくり水を飲む。せきたてられてもぶたれても、別にあせる模様もなくどこまでものんびりである。ここかしこの山間渓間にはまだ残雪が深く、おくれ咲きの山桜や山吹とともに何ともいわれぬ残春の景趣を横溢させている。山の声は甲高い馬子や一行の話声と小鳥のやさしい語らいと、時々人気に驚いて熊笹をゆすって逃げ去る兎くらいのものでまったく閑寂そのものである。ひる頃天狗の湯に着いた。麓を出てから二時間後のことであった。
(昭和十年)
完