旧い記憶を辿つて
本文約1,400字 ・ 読了時間 約3分
あらすじ(AIが作成しました)
明治から昭和にかけての画壇を振り返り、画家・竹内栖鳳の帰国や当時の展覧会の様子、そして交流のあった春挙の人物像や彼との思い出を綴る。著者が十六、七歳の頃に全国青年絵画協進会に出品した際の春挙との縁、展覧会の作品の変遷、晩年の電車内での対話などを回想する。伝統的な手法が軽視される画壇の現状を憂いた春挙の言葉を記し、個人の体験を通じた貴重な芸術史的記憶を収める。
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その頃の絵は、今日のやうに濃彩のものがなくて、何れもうすいものでした。恰度春挙さんの海浜に童子の居る絵の出たころです。そのころは、それで普通のやうにおもつてゐたのでした。今日のは、何だか、そのころからみるとずつと絵がごつくなつてゐるとおもひます。
法塵一掃は墨絵で、坊さんの顔などは、うすいタイシヤで描かれてゐました。尤も顔の仕上げばかりではなしに、一体にうすい絵でした。この作品が出品された年は、恰度栖鳳先生が、西洋から帰られた年でして、獅子の図が出品されました。その時分に屏風などが出てゐましたが、併しまたとても今日の展覧会などに出品されさうもないやうな小さな作品も出てゐました。寸法に標準と云ふものがまるでなかつたのでした。
私が二十五、六か七、八歳頃、森寛斎翁はなくなられましたが、そのころの春挙さんは、私もよくおめにかかつてゐました。塾がちがつたものですから、これと云つて、まとまつたお話もうかがつた事もありませんでしたし、ゆつくりおめにかかると云ふやうな機会もありませんでしたが、そのころ、お若い内から春挙さんは、すつくりした、いかにも書生肌の、大変話ずきの人でした。毒のない、安心して物の云へるいい人であつたと云ふ事は、私にも云へます。
私の若い時分は、今のやうに、文展とか、帝展とかと云つた、ああ云ふ公開の展覧会と云ふものが、そんなに沢山ありませんでしたので、文展時代の作品については、はつきりとした記憶がまだ残つてゐます。春挙さんの塩原の奥とか、雪中の松とかは、いまだにはつきりとした印象を残してゐます。
青年絵画協進会のは、海辺に童子がはだかでゐる絵で、その筆力なり、裸体の表現などが、当時の私共には、大変物珍らしく、そして新しいもののやうに感ぜられたのでした。取材表現のみならず、色彩に於ても、新しい感覚に依つてゐたものでありました。