本文へ移動
TORENDIA

遁走

本文約11,500字 ・ 読了時間 約24分

あらすじ(AIが作成しました)

貧困と病に苦しむ「私」は、自身の長編小説の出版記念会を控える友人・笹川を訪ねる。しかし会は出版社の意向で一部の友人が除外されるという。自身の生活すらままならず、かつて支えてくれた笹川の冷徹な姿勢や、理想と現実の狭間で苦悩する作家仲間の衝突を目の当たりにした「私」は、活力を失い追い詰められていく。帰郷を決意し、東京から遁走するまでの心情と、衰弱した自らの足跡を綴る。

葛西善蔵

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 15

一

神田のある会社へと、それから日比谷の方の新聞社へ知人を訪ねて、明日の晩の笹川の長編小説出版記念会の会費を借りることを頼んだが、いずれも成功しなかった。私は少し落胆してとにかく笹川のところへ行って様子を聞いてみようと思って、郊外行きの電車に乗った。

笹川の下宿には原口(笹川の長編のモデルの一人)が来ていた。私がはいって行くと、笹川は例の憫れむようなまた皮肉な眼つきして「今日はたいそうおめかしでいらっしゃいますね」と、言った。

こう言われて、私は頭を掻いた。じつは私は昨日ようようのことで、古着屋から洗い晒しの紺絣の単衣を買った。そして久しぶりで斬髪した。それで今日会費の調達――と出かけたところなのだ。

「書けたかね?」と、私は原口の側に坐って、訊いた。

「一つ短いものができたんだがね……それでじつは今朝から方々持歩いているんだが、どこでもすぐ金にはしてくれない」と、原口は暗い顔して言った。

「それで、君のところへは会の案内状が来た?」

「いや、僕が家を出る時はまだ来てなかった」と彼は同じ調子で言った。

「僕のところへもまだ来てない。しかしおかしいじゃないか、明日の会だというのに……。それにKやAのところへは四五日も前に行ってるそうだぜ。どうしたんだろうね君……?」

「そんなこと僕に訊いたって、分りゃせんさ。それに、元来作家なんてものは、すべてこうしたことはいっさい関係しないものなんだよ」笹川はこう、彼のいわゆる作家風々主義から、咎めるような口調で言った。

彼のいわゆる作家風々主義というのは、つまり作家なんてものは、どこまでも風々来々的の性質のもので、すべての世間的な名利とか名声とかいうものから超越していなければならぬという意味なのである。時流を超越しなければならぬというのである。こういう点では彼は平常からかなり細心な注意を払っていた。たとえば、卑近な例を挙げてみれば、彼は米琉の新しい揃いの着物を着ていても、帽子はというと何年か前の古物を被って、平然として、いわゆる作家風々として歩き廻っているといった次第なのである。

葛西善蔵の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本