TRENDIA CLASSIC

周防石城山神籠石探検記

喜田貞吉

1 / 7

明治四十二年十二月三十日、世間では年末だ師走だと餅搗きやら懸取りやらに忙しく騒いでいる中を東京帝国大学の嘱によって石城山神籠石探検の為に登山した。同行者は日本歴史地理学会出張員藤井、宮崎の両文学士と芦田伊人氏とで、別に、九州における熱心家にその人ありと知られたる小倉中学校長文学士伊東尾四郎君は、わざわざその任地から来会され、遺蹟報告者熊毛郡視学西原為吉君をはじめ、有志の人々六七名、また案内かたがたともに登山せられた。

石城山の神籠石は、この種の遺蹟が本州にも存在していることを始めて証拠立てたもので、神籠石研究上に一つの記念となすべきものである。

余輩が今回さらに神籠石について研究を重ね、これを世間に吹聴し、遂にこの「神籠石号」を発行するまでに至った動機は、前記西原君によってこの遺蹟が発見された事であった。西原君は福岡県の人で、神籠石についてはかねて熟知されている。先年余が筑後女山の遺蹟を調査した際にも、同君は親しく案内の労を執られた。その西原君が当郡の視学として転任されたのは、多年埋没して世に忘れられていた当山の大遺蹟が、いよいよ世に出るべき機運を造ったものだ。

石城山には延喜式内石城神社がある。今は郷社の社格であるので、郡視学たる西原君は郡長に代り奉幣使として当神社祭典の際に参向した。当山にはかねて山姥の穴として知られた四つの穴がある。西原奉幣使は登山の為にこの穴を実見し、その形式の女山の水門に酷似している点に注目され、これを連絡すべき列石を捜索された。果然或いは埋没し或いは崩壊しながらも、なお明らかにそれと認むべき証蹟を発見し、すなわち余にあてて山内古図とともに報告されたのがすなわち余らの今回の探検となった道筋である。

喜田貞吉の他の作品