TRENDIA CLASSIC

道教に就いて

幸田露伴

1 / 20

道教は支那に於て儒教と佛教と共に鼎立の勢を爲してゐる一大教系であり、其分派も少からず、又其教義も少しづゝの異を有して居り、草率に其の如何なるものであるかを説き、且つ之を評論することは、もとより不可能の事に屬する。儒教は歴史的にも教義的にも、むしろ平明なものであり、且又世間教に屬するもので、假令其の淵源たる時代即ち殷周の頃には數上帝を稱し、神鬼に事ふることを重んじたことを認めしむるとは云へ、他の所謂宗教なるものの、超世間的世界を有し、超人的教權者の存在を高調して、そしてそれに因依して教威を立てゝ世に臨むのとは大に異なつてゐる。そこで支那を掩葢するところの宗教らしい宗教は、佛教と道教とで、其他には清眞教等の微勢力のものが存するのみである。道教は支那に起り、支那に發達し、僅に朝鮮日本に多少の影響を貽つたに過ぎないで今に至り、しかも其教の精神からして世界に衝動を與へたといふほどの事も無くて濟んでゐるから、これに注意するものもおのづから少くて、今日の世界の智識の倉庫たる觀ある大英百科事彙を開いてみても、タオイズムの條の記事の貧弱さは人をして西人の東方に關する智識はかゝるものかと驚かしむるほどである。しかし道教の勢力は支那に於て決して輕視すべきものでは無くて、其人民の間に於ける一般道徳・信仰・情操等の或部分を爲してゐるものであることは、其歴史、其文學、其美術等に徴して分明なことである。支那士女の實状を反映するところの小説戲曲の類を試みに瞥見したら、何人も隨處に道教の色彩と香氣とが現はれ漾うてゐることを認めるだらう。あらず、道教の色彩香氣の無いものを見出すことが却て難事であることを認めるであらう。又支那の高等文學たる、士君子を反映してゐる詩の世界に於ても、例へば最も輝いたる唐の時代に於て杜甫に儒教精神を見出すに比して、李白に道教香氣を見出すが如く、餘りに古い時代を除いては、何時の代の詩にも道教香氣を見出すであらう。道教は實に支那に於て根も深く枝も繁つてゐるものである。

幸田露伴の他の作品