このごろ
本文約3,700字 ・ 読了時間 約8分
あらすじ(AIが作成しました)
南洋へ渡った従兄との交流を通じて肉親への複雑な思いを抱く語り手は、戦地に赴く友人や芸術論を戦わせる友人と日常を共有する。各地を転戦する友人の武運を祈り、議論に熱中して犬に怯えるといった些細な出来事を経て、語り手は自らの弱さと向き合う。周囲との関係を少しずつ回復しながら、故郷の家族からの心遣いに触れ、平穏な日々の訪れと自身の変化を綴る。
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(一)
南洋パラオ島の汽船會社に勤めてゐる從兄があります。名前を云へばわかるかも知れませぬが、わざと書かない。この從兄は十年前に或る政治運動に獻身して捕へられ、殆ど十年近く世の中から遮斷せられ、このごろ出ることを許され、今は南洋パラオ島で懸命に働いてゐるのであります。先日南洋から手紙が來て「東京の家にはお前の唯一人の叔母たる小生の母と、小生の妹と家内と三人で侘しく留守をしてゐるから一度訪ねて行きなさい」とそれに書かれてありましたが、私はそれに返事して「僕にはとても行けない。僕は今まで色々の馬鹿の事をしてゐるので、肉親とは當分、往來出來ないことになつてゐるのだ、故郷の家とも音信さへ許されてゐない有樣だし、また僕がのこのこ親戚のお宅へ顏を出したら故郷の母や兄はやがてそれを聞いてあの馬鹿がと恥かしい思ひをするであらう、いい恥さらしだといつて嘆くかも知れない、僕は肉親の誰とも顏を合せることが出來ないのだ、僕は叔母さんの所へ行きません」と書きました。
折り返し南洋から繪葉書が來て「おまへの手紙を讀みました。おまへの之までの業蹟に就いては親戚の者共、いづれも心配してゐた樣である。けれども、過去のことは申すな。過去の事を申せば、小生ごとき天下に隱れも無いではないか。さういふことは氣にかけないやうにしませう。是非いちど小生の東京の母を訪ねなさい。小生の母も病弱で、おまへの父上同樣、長命は保證できません。おまへの故郷の方には、小生の家の方から別に何とも言ふわけで無し、誰にも知れる氣づかひは無いのだから、安心して一度たづねてやつて下さい。母も、どんなに喜ぶか知れない。小生、このごろボオドレエルを讀み返し、反省悔恨の強烈を學びつつあります」といふ言葉だつたので、私も之以上、愚圖愚圖してゐるのは、かへつて厭味な卑下だと思ひ、叔母を訪ねることにしました。