日本媼
本文約3,100字 ・ 読了時間 約7分
あらすじ(AIが作成しました)
マリー・ヒレンブラントは、ドイツのミュンヘンで長年日本の留学生の世話を焼き、『日本ばあさん』と親しまれる老媼である。本書は、著者である斎藤茂吉が同地に滞在した際、彼女の家に起居した追憶を綴る。彼女の息子である混血の若者との関わりや、古い留学生の写真、飼っているカナリヤ、そして彼らに教えた日本飯の焚き方など、日々の生活を通じた交流や老媼の人となりを丹念に描き出し、異国で日本人に寄り添い続けた一人の女性の情愛を回想する。
💰 この本を応援する(投げ銭)
媼の名は、Marie Hillenbrand といふ。媼がまだ若くて体に弾力のあつた頃から、その母親と共に多勢の日本留学生の世話をした。当時の日本留学生は概ね三年ぐらゐ居たのであり、一つの都市に居ついて其処で勉強するのを常としたから、都市の人々と留学生との間に、おのづと心の交渉が成立ち、それが今時と較べて余程親密なものであつたと見える。そこで、この媼は娘のときから入りかはり立ちかはり日本留学生の世話をして老媼に及んだのである。『日本ばあさん』といふのは、これに本づいた名であつた。
私は西暦一九二三年の七月から丸一年ミユンヘンに居るうちいろいろ媼から世話になつた。そして後半の七ヶ月あまりを媼の家に起居し、ミユンヘンを去る時も媼の家から立つた。いま追憶してなつかしく思ふのもその為めである。
媼は私の世話になつたころは、既に六十に手が届くぐらゐの齢に達してゐた。昔世話した日本留学生の写真を沢山持つてゐて、居間に飾つてあつたり、アルバムのなかに插んであつたりして、楽しさうにそれを私等に示した。なかには媼が未だ娘々した顔でうつつてゐる写真などもあつた。
媼が生んだただ一人の男の子に Wilhelm Hillenbrand といふのが居た。これは日本の留学生の生ませた混血児であるが、すでに三十に近い敏捷な若者である。皆が Willi と呼んでゐた。
『Willi の奴を看てゐると実におもしろいね。すばしこくて、短気で、猾いところがあるかと思へば、気前が馬鹿に好かつたりして、やつぱし半日本人といふ処があるね』
『それはさうだらう、実は婆さんにも一寸そんなとこがありあしないか』
『さういへばそんな点もあるやうだね。何せ日本人が好きで世話をしながら、子を生んだのだから、何かの黙契があつたんだらう』
『黙契か、婆さんの顔でもひよつとしたら、蒙古種でも交つてゐるのかも知れんぜ。蒙古の奴らが昔このへんまで荒らしたといふぢやないか』
こんな話が或時、私等一二人の間に取交されたこともある。