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TORENDIA

雷談義

本文約3,200字 ・ 読了時間 約7分

あらすじ(AIが作成しました)

雷は古来より畏怖される存在であり、その語源や心理的影響、文芸作品における描写を論じる。斎藤茂吉は、雷に対する恐怖が『武道伝来記』のような悲劇を生む一方で、井原西鶴や菊池寛の作品では人情や冒険心を掻き立てる機縁として描かれる点に着目する。また、雷神が子供の臍を狙うという伝承や俵屋宗達の画風が持つ滑稽味を分析し、現代の娯楽や風俗への展開に触れる。さらに、自身の満洲旅行で見聞した冬の雷鳴の記憶を通じ、自然現象に対する独自の考察と感慨を綴る。

斎藤茂吉

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🎧 雷談義 / 朗読音声: VOICEVOX:もち子さん

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一

雷のことをイカヅチと云つて、古事記にも大雷、黒雷等とあるが私は嘗てイカヅチは厳槌で、巨大な槌といふ語原だらうと思ひ、上代人が、彼の響きを巨大な槌を以て続けさまに物を打つと考へたその心理を想像したのであつたが、それは素人的な理窟で、実は間違つて居た。『名の意は厳なり。豆は例の之に通ふ助辞、知は美称なり』(古事記伝)とあるごとく、厳之神、厳之霊といふ意に落付く語原であつた。

もつとも、東雅引用の文を見ると、私の考へたやうに厳槌とした素人考証家もゐたことは居た。雷のことを神鳴、鳴神といふのは、畏怖すべき神として上代人は体験してゐた。これは恐らく支那でも同じことであらう。

雷はああいふ鋭い音をたてるから人は本能的に雷を恐れる。雷撃を直接受けたことが無くとも雷を畏怖するのは、恐らく古い世界からの遺伝で不意識に畏怖するのであらう。それがひどくなると、武道伝来記に出て来る乙見滝之進のやうな、雷の畏怖から悲劇に迄発展することがあり、

『滝之進日来雷公にこはがる事人にすぐれたれば、此ひびきに動顛して関内まづ待つてくれよと、半分頭剃りかけしを周章て立さはぎ天井の板の厚き所はないかと逃廻り脱捨し単羽織の有程引かぶり、桑原桑原と身を縮めかた隅に倒臥たるをかしさ』

には、滑稽があるけれども、西鶴ものには無限の哀韻があり、雷鳴を機縁とした人生の悲劇を描写してゐるのも、西鶴の地金の一面であつただらう。

けれども現代は、さういふ愚直な悲痛は跡を絶つて、ほんのりとした人情を好むやうになつてゐる。菊池寛の「新道」にも雷雨を縁として男女の交会するところを写してゐるが、これには武道伝来記にあるやうな滑稽が無くて、従つて甘美で、悲劇に導くやうなことがない。そして当今の青年男女は、あの場面を幻影として一つのアヴアンチユールを形成することになつてゐるが、これもまた菊池氏の手腕であつた。

併し、西鶴とてもいつもああいふ手厳しいものをのみ取扱つてはゐない。好色一代男に、『雷の鳴る時は、近寄りて頭まで隠せしこと』云々といふところがあるから、一方当時の読者と雖も、西鶴のこの一句から様々の冒険の心を湧かしたかも知れないのである。

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