『エ、おい、べら棒な。恁う見えても急所だぜ。問屋の菎蒻ぢやあるめいし、無價で蹈まれて間に合ふけえ』。
大泥醉の粹背肌、弓手を拳で懷中に蓄へ、右手を延ばして輪を畫くと、手頸をぐいと上げて少し反身のかたち。
向合て立つたのは細目の痩形、鼻下に薄い八字を蓄へて金縁の眼鏡が光る、華奢のステツキに地を突いて、インバネスの袖を氣にしながら對手が惡いと見て、怯氣た體、折折無氣味相に、眼を轉じて前後を竊視する。
蓋し『力は無かりけり』の標本男。
『エ、おい何とか言はねえか、物を言はねえかよ、唐變朴』
『………………』
『蹈んだら、蹈んだと言ひねえな、確かに私が、蹈みましたと詫びりや、すむ事ツた。おい。』
『だから謝罪たと云ツてるぢやないか、先刻から。』
『だから謝罪た、へん其樣な横柄な言草があるけえ、蹈みましたから、御免下さいましと云ふもんだ。何でえ、失敬しただあ。己あ其樣に唐人言葉は知らねえ日本人なら日本の言葉で言へ、恁う最う少し胸の透く樣な文句を利いた者だぜ』
痛罵しえて意氣昂然たり。颯然と二の腕を捲ると、生白い肌が現出れて酒氣を帶びた頬が薄赤い。
此の日偶然○○不動の縁日。
涼を取るべく連立た人。白い浴衣。黒い帶。萌黄の帷子。水色の透綾。境内は雜然としてかんてらの燈火が四邊一面の光景を花やかに、闇の地に浮模樣を染め出した。
香水、麝香、油煙、マニラの臭氣相混じて一種縁日臭を作り、靄々然として、人自らそが上を蹈み、そが中を歩めり。
『喧嘩だ、喧嘩だ、』
背中を突かれて驚く男、袂をくぐられて間誤付く女、跳ね飛ばされて泣くは子供、足下を攫はれて轉ぶが年寄、呆氣に取られた人人の間を縫て、矢の樣に走つて行く一人の男。
『ほれ喧嘩だ』
と、云ふとドツと一時に動搖めいて一崩れ、ばたばたと男の後を追うて、津浪が押し寄せた樣、逸早く合點した連中は、聲を擧げて突貫した。されば菓子屋、植木屋、吹屋、射的場の前には、今一客を止めず。吹屋の姐さんは吃驚した半身を店から出せば、筆屋の老翁は二三歩往來へ進み出て、共に引き行く人浪の趾を見送る事、少時焉たり。