徳川時代の法制では、エタは非人の上に立って、これを支配監督する地位にいたのではあるが、非人には通例足を洗うて素人に成ることが出来るという道が開いていたのに反して、エタには殆どこれが認められてないのが普通であった。これエタは神の忌み給う肉や皮の穢に触れたもので、人そのものが穢れているのであると誤信された結果である。したがって非人と呼ばれたものの多数が解放された今日、なおエタと呼ばれたもののみは取り残されるに至ったのである。しかるに遠州の或る地方には、かかる厳重な習俗の行われた時代にも、なお「打上げ」と称して、足洗いの出来る道が設けられておった。「全国民事慣例類集」に、遠江国敷知郡地方では、「三代皮剥ぎの業をなさざれば、平民となるの例あり。穢多は所持地多分ありて、貢租を納め、中には富豪の家あり。平民へ金銭を貸付る者もあるなり」と見えている。幕府の制では弾左衛門の主張のままに、絶対に足洗いを許さぬ方針を執り、他地方に於いてもこれに倣って、だんだん階級観念が盛んになるとともに、またエタの人口の増殖とともに、エタに対していよいよ甚だしい圧迫を加える様になっても、この遠州地方のみには、まだ幾分寛大な扱いが遺っておったものとみえる。そこで、これらの地方に於ける維新後の状況はどうであるか、他の地方とはどう違っているかを知りたく、かねて調査の機会を求めていながら、未だ着手に及ばなかった折柄、同地方の或る篤志家から、最も有益なる、かつ最も愉快なる左の如き完全融和の事実の通信を得た。
「完全に融和されたる部落」
遠江 奇聞老人
静岡県浜名郡□□□村字□□と称する部落は、通称六軒家と云ひ、小部落にして、幕府時代に在ては人民皮細工・草履細工を業とせしが、明治の初年頃従来の業を全廃し、みな農業に就き、婦女子は織業を営み、一般民と通婚行はれ、完全に融和されて殆ど昔日の痕跡を知るもの絶てなき状態なり。