1 緒言
日蓮宗の宗祖日蓮聖人はエタの子なりという説がある。いわゆる特殊部落の人々の書いたものや、或いはその親しく語るところによると、某大臣は我が党の士である、某将官も我が党の士である、某々名士もまた我が党の士であるなどと、しきりに我が党の成功者を列挙するものの中に、歴史的の偉人としては、いつも日蓮聖人が数えられて、それをいわゆる部落民の誇りとしているのである。
日蓮を以てエタの子なりということは、実は近ごろになって始まったものではない。既に古く「大聖日蓮深秘伝」というものがあって、父は房州小湊近郷の穢民で名は団五郎、母は同州小湊浦の漁夫蓮次郎の女で名は長と、その名前までが立派に掲げられて、彼はエタの如き賤者の子と生れながらも、かく宗教上の一大偉人として尊信せらるるに至った偉大さに、随喜渇仰したげに書いてあるのである。そしてその団五郎なるものは、後世のいわゆるエタと同じく、皮剥ぎ沓作りを職としたもので、聖人も少年の時には、自らお手のものの獣皮で鼓を張って、嬉戯にも軍陣の真似をなされたのだとか、日蓮宗に団扇太鼓を打って題目を唱えるについては、戦法において鐘は退くの器、大鼓は進むの器なるが故に、父団五郎がみずからお手のものの太鼓を張って、これを日蓮に贈ったのだなどと、エタという事に付会して、とんだ起原説までが書いてあるのである。なおまた日蓮は穢民の家を捨て、母の縁を尋ねて漁家の種族と名のったのだとか、それは世の侮を防ぐ孝心の結果であるのだとか、余程穿ったところまで書いてあるのである。この書は表面日蓮遺弟の、いわゆる六老僧なるものの連名著作となっておって、しきりに日蓮の聖徳を讃嘆したげに見せかけながら、内実は裏面から甚だしくこれをそしったもので、おそらく彼によって念仏無間と罵られた仇討に、徳川時代もおそらく末に近い頃になって、浄土宗の側の人の手になされた悪戯だと思われるが、それにしても彼がエタの子であるということを、繰り返して自慢気に云っておるところに、もともとどんな拠があるのであろう。