TRENDIA CLASSIC

濫僧考補遺

喜田貞吉

1 / 4

本誌三月号(九巻三号)に「濫僧考」と題して、社会の落伍者が沙門の姿に隠れて、賤職に従事しつつ世を渡ったことを述べ、それを鎌倉時代にはエタと同視していた次第を明らかにしておいた事であったが、その後さらに二三の資料の存在に気がついたから、いささか前文の不備を補っておく。

濫僧はもちろん沙門である。したがって法師と呼ばれてはいたが、実は三善清行によって「形は沙門に似て心は屠児の如し」と言われたように、普通の沙門の仲間には入れられないものであった。彼らは京都にあっては普通に賀茂の河原や東山の坂の空地に小屋住まいをしていたものであったが、その身に穢れありと認められて、賀茂神社付近の河原には、屠者とともに住居を禁じられていた。さればその犯罪処罰の場合にも、その扱いが普通の僧侶とは別であった。西宮左大臣源高明の「西宮記」臨時十一に、

僧犯罪触レ類有二加減一。須下依二還俗之法一、注二姓名一、勘中僧時之犯科上也。或以二告牒一可レ当レ徒止二一年一。而年々勘文、具不レ載二其由一。只以二俗法一勘レ之如レ此。濫僧偏准二凡人一歟。

とある。僧の犯罪については「大宝僧尼令」にその規定があって、まずこれを還俗せしめて後に処刑する事になっていたが、濫僧に至っては同じく法師であるとは云え、「偏へに凡人に准じて」還俗の手続きなどを要しなかったものらしい。これは彼らが本来私度の僧で、「私に自ら髪を落し猥りに法服を著け」たものであったから、国法の上ではこれを僧侶とは認めなかったのだ。しかし私度の僧がすべていわゆる濫僧であった訳ではなく、その中に特に下賤のもののみを言ったもののようであるが、その境界が明らかでない。

鎌倉時代に仔細知らぬものがエタを濫僧と云ったと「塵袋」にあるが、彼らはまた実に非人法師であった。藤原定家の日記「明月記」嘉禄元年三月十二日条に、

喜田貞吉の他の作品