TRENDIA CLASSIC

倒れた花瓶

徳田秋聲

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ステーシヨン前の旅館から、新聞社の人達によつて案内されて来たその宿は、氷川の趣味性から言つて、ちよつと気持の好いものであつた。それは其の宿屋が、近代式旅館と言ふには少し古風であつたと同時に、かいなでの田舎の旅籠屋とちがつた、古い都会らしい趣味の頽廃気分があつたからで、彼は庭の植込みのあひだを潜つて、飛石づたひに、一棟離れた茶室に案内されたとき、漸と落着場所に有りついたやうな安易を感じた。その離房は、簡素な茶室と、それにつゞいた薄暗い六畳の二室から成立つてゐた。氷川は勿論お茶人でも風流人でもなかつたけれど、旅でさう云ふ部屋に寝起きすることが、暫らくでもちよつとさう云ふ佗しい気分にならせるのであつた。

それがちやうど電燈のつく時分であつた。氷川は、これも飛石を渡つて行くやうにできてゐる風呂へ入つてから、その人達と外へ飯を食べに行つて、帰つて来たのはもう九時頃であつた。氷川は飯を食べたその家にも、何となし産れ故郷を訪れたやうな懐かしみを感じたのであつたが、それも燻しのかゝつた上方風の静かな家であつた。瀟洒な庭の木石のあひだに、幾つかの部屋が、飛び/\に置かれてあつた。

その晩氷川は茶室つゞきの六畳で、静かな眠りに就くことができた。彼は疲れた頭の髄からすやされるやうな感じであつた。

翌朝氷川は十時頃に目がさめた。そして湯殿で顔を洗つてから、庭を歩きながら、掃除のできるのを待つてゐた。

「さあ何うぞ。お掃除ができましてござります。」

五十六七の小柄なお婆が、さう言つて声をかけた。氷川はやがて部屋へ入つて行つたが、夜は判らなかつたけれど、今朝になつてみると、部屋の暗いことに気がついた。床の間にある小鉢の石蕗の花が、ふと彼の目についた。

「ここは大変いゝですが、物を書くには少し暗いやうですね。」

「さやうでござりますか。お暗ければ日当たりの好い部屋が二階にござりますでな。」

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