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その晩の九時半ごろのことである。
ちょうどその日、宿直の番に当たった会計の野田幸吉は、宵の口の騒ぎもほぼ静まり、ほうぼうからうるさく問い合わせてくる電話の応接もたいてい済んだので、肘掛け椅子をガス・ストーブの傍へ曳きずっていって、疲れた身体をぐったりとその上に乗せた。
彼の様子は妙にそわそわしていた。椅子を立ったり坐ったり、ときどき社長室へ通ずるドアのところへ行って、腰をかがめて鍵穴から中を覗いたりした。ドアには警察の封印がしてあって、警官の立ち会いの上でなければ中へは入れないのである。
やがて、彼はがっかりしたもののようにぐんなりと肘掛け椅子に寄りかかっていると、なんだか大急ぎで階段を駆け上がってくるような音が下から聞こえてきた。彼は全身の注意を耳に集中して、だんだん近づいてくる足音に耳を澄ました。
足音は彼の部屋の前でぴたりと止まった。
こんこんとノックの音がする。
彼はできるだけ冷静な態度を装って、
「どなたですか?」
と訊いた。
「警察の者です、ちょっと急に調べる必要があったものですから、どうぞ開けてください」
野田はぎょっとしたが、相手が警官と聞いては開けないわけにはいかない。ポケットから鍵を取り出して、震える手先で鍵穴へ突っ込んで、ぎりっと回した。
「どうも晩くなってすみません」
と警官にしてはばかに丁寧な挨拶をしながら入ってきたのは、さっきの若い刑事であった。
冬木刑事は野田がストーブの傍へ持ってきた椅子にどかりと腰をかけて、野田と向かい合った。
「急に思い出したものだから、ちょっとお訊ねしようと思って来たのですがね」
冬木は朝日(当時の煙草の銘柄の一つ)の袋をポケットから出して、ガスで火をつけながら言った。
「それよりも前に、社長室のドアはまだだれも開けないでしょうな?」
刑事はちょっとドアのほうへ目をやった。
「はい、そのままにしてあります」
「実は、庶務の北川さんがたいへん不利な立場に立っておられるのでね、そのことでもう一度、あなたからはっきりお訊きしたいと思って来たのですが、北川さんが最後に社長室へお入りになった時刻は、さっきあなたがおっしゃった時刻に間違いありませんね?」