本文へ移動
TORENDIA

平次放談

本文約4,700字 ・ 読了時間 約10分

あらすじ(AIが作成しました)

江戸時代の気風が持つ「たしなみ」の価値や、現代人に失われた道徳について、著者が随筆として綴る。代表作『銭形平次』が読者に愛読される背景を、寝室で楽しむ読書体験と重ねて述べる。執筆時にはクラシック音楽を伴奏として愛好する習慣についても触れ、自身の経験や世間の出来事を交えながら、古き良き伝統や郷愁を重んじる姿勢を説く一冊である。

野村胡堂

速度
🎧 平次放談 / 朗読音声: VOICEVOX:青山龍星

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 6

江戸のよさ

江戸のよさということを、いまの人は忘れていると思います。江戸というものは、いいものだし、たいしたものでした。

当時、両国にはたいへん猥褻な見世物があって、いまのストリップ・ショーなんか、とても追いつくものではなかったというんですね。

ところが、そこに行くのは、折助とか、やくざとか、田舎から出てきた江戸見物の人たちで、江戸の堅気の人たちは、決してそこに近づかなかった。

それから比丘尼(比丘尼姿の売女)とか、船饅頭(浜辺の小舟で売色した私娼)という下等の売春婦に、江戸の市民は決して近づかない。あそこに行くのは落ちぶれた、だらしのない生活者に限られていました。

もちろん江戸には、ずいぶんイヤなものが多く、強権でもって封建的に人を押さえつけたこともあるけれども、一方によいことも一杯ありました。江戸払いとか、江戸構えといっても、実際は名前だけで、あいかわらず江戸に入っていたそうです。つまり「叱りおく」といった程度で、江戸におることができた。かりにそれが分っても、誰も摘発なぞ、おせっかいはしませんでした。

むかしの人には、そういった一種のたしなみとか、思いやりがあったんですね。

いまの人には、他人が見ていなければ、何をしたってかまわないという気持がある。江戸の人は他人が見ていなくても、へんなことはしなかった。たとえば両国の見世物に入ったところを他人に見られようものなら、とんでもない恥としていた。こうした江戸の気風というものは、パリやロンドンあたりの伝統的な気風と、よく似ているように思われるんですがね。

江戸人には、たしなみというものが、それくらい大きな支配力を持っていた。それで私は、たしなみのある女こそ一番美しい女じゃないだろうか――というテーマで小説を書いたことがあります。

これを江戸の人は、みんな持っていました。それをいまの人は持たなくなっている。私が平次、八五郎を書くと、回顧的だとか退嬰的だとかいわれるが、それは間違いで、江戸のもつたしなみとか、江戸の所作とか、江戸の郷愁とか、これを忘れてはいけない。あれを振り返って考えることは、新しい文明をつくる上に必要なことなんだから……。

野村胡堂の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本