十三夜
本文約13,800字 ・ 読了時間 約28分
あらすじ(AIが作成しました)
マニラに駐在する「私」は、日米関係が緊迫する中、会社から避難の準備を命じられる。開戦を迎え、邦人はパサイの収容所へと移送される。食料不足や爆撃に脅かされる過酷な収容所生活の中で、監視兵の顔色をうかがう日々を送る被収容者たちの精神的疲弊と、日常が失われた異常な状況下での心の歪みを描く。
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十二月七日。椰子の葉が風にゆれている。ブルー・バードの河岸はいつも見る同じ風景ではあったが、鳴りをしずめた自然の中にさえ無気味な影がちらついている。ブルー・バードの並木道へ出るとさすがに冬の気配が心にせまるようであった。空は青く雲のかげも見えないほど澄みきっているし、防波堤の上には散歩服を着たスペインの女が何時ものように、ゆったりとした足どりであるいている。それさえも、現在の自分とはもう縁もゆかりもないもののように思われた。朝の海にはアメリカの軍艦が湾口に錨をおろしている。靄につつまれた大気をとおして一つ、二つと数えているうちに、このおだやかな海がやがて砲煙にとざされる日のちかづきつつあるという思いがぐっとこみあげてきて、私は急に胸のひきしまるのをおぼえた。
人通りのすくないマビーニの街である。アカシヤの若葉にかこまれた事務所の門を入ると自動車をおりたところで同僚の相川に逢った。
「いよいよ切迫して来たぞ」
「うん」笑おうとしたが、すぐ何か厳粛なものにつよく胸をしめつけられた。笑いきれないものが唇の上によどんでいる。入口の掲示板には社員は食堂に集合すべしと書いてあるので、相川と一緒に駈足で入ってゆくと、食堂の中にはもう三十人あまりの同僚がぎっしりつまっていた。みんな緊張した顔をして椅子におちついているのだ。誰一人ものをいう者もなかった。
そこへ南宮支店長が扉をあけて入って来るとすぐに持っていた書類を正面のテーブルの上へおろし、演説をするように四角ばったお辞儀をしてから、「御苦労さまでした」と、何時になくしんみりした調子で、殊更おちつこうとしている様子が、私の眼にもどかしく不調和なものに映った。
「時局がだんだん切迫して来たようですね、――しかし今すぐに戦争になるというニュースを私が握っているわけじゃないんです、みなさんと同じように毎日のラジオと新聞をよんでいるだけですが、しかし万一のことがあってもたじろがないだけの用意はしておきたいものですな」