河鹿
本文約3,800字 ・ 読了時間 約8分
あらすじ(AIが作成しました)
温泉宿に滞在する緒方新樹と妻のA子は、互いの存在に疲れ果て、形骸化した結婚生活の破綻を確信していた。離別を望む夫と、それを受け入れられない妻の間で感情的な対立が深まる中、新樹は一人きりになることを求めて宿を飛び出す。夜の川辺で河鹿の群れが重なり合って流れる様子を目の当たりにした新樹は、その光景に自身の境遇を重ね合わせ、妻との関係を抱きかかえて歩む姿を幻想する。
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川ぞいの温泉宿の離室に泊っている緒方新樹夫妻はすっかり疲れてしまった。彼等はお互いの生活の中から吸いとるかぎりのものを吸いとってしまっていた。愛することにも、憎むことにも彼等にとっては最早何の新しさも残っていなかった。彼等は全く同じ二つの陥穽の中に陥っているようなものだった。互いに、小さな感情で反撥し合うことと、残滓にひとしい小さな愛情の破片を恵み合うこととの退屈な習慣の繰返しによって、彼等は辛うじて自分たちが対立しているということを感ずるだけであった。こういう生活は何時かは破れなければならない。――緒方新樹はそう思った。彼に従えば、つまり、これは誰れが悪いのでもない、彼等の結合が既に不自然であったのだ。彼等は生理的に男であることと女であることとの区別をのぞいては全く同じ気質を持った人間であったから。――
ある晩、二人は寝床の中でこういう会話をした。最初、緒方新樹を揺り起したのは妻のA子である。
「ねえ、あなた、――わたしたちはこうやって暮しているうちに自分をすっかり擦り減らしてしまうような気がするじゃないの、それがわたし急におそろしくなったの。だからね、わたしいいことを考えたのよ。わたしたちはすっかりわかれてしまうことにするの。そうしてね、勝手な空想をするの。空想の中であなたがほかの女と一所に何処かへ逃げていってしまったっていいわ。わたしがひとりのこされる。ね、そうするとわたしたちの生活がもっと生々してくるわ。ほんとうにわかれるんじゃないのよ。世間体だけそうするの」
「なるほど、そいつはいい方法だ。早速はじめることにしよう。だがね、おれはお前ほど空想的でないから動くのが厭だ。――おれの方に残される役を振りあててくれ」
「あなたは莫迦に冷淡なのね、あなたはそんな風な言い方をして平気なの、――わたしはもうあなたにはまるで要らないものになってしまったのね、あなたはわたしがほかの男と逃げていったりするのを黙って見て居られるの?」