TRENDIA CLASSIC

海の中にて

菊池寛

1 / 12

二人の生活は、八月に入つてから、愈々困憊の極に達して居た。来る日も、来る日も彼等の生活は陰惨な影に閉ざされて居た。

敬吉には、おくみの存在が現在の暗いじめ/\とした世界と、明るい晴々とした自由な世界とを、遮ぎつて居る障壁のやうに、思はれる日が多くなつた。おくみの羸弱い手が、自分の頸の廻りに、纏ひ附いて居る為に、けばくほど、深味へ陥ちて行くやうに思はれてしやうがなかつた。

そんな度に、彼はおくみの軽挙が、恨まれ始めた。彼女の、余りに軽率な、浅慮な行動から、現在の凡ての苦痛が、萌して居るやうに思はれた。

生活が、苦しくなればなる程、其当時の思出が、韮を噛むやうに、苦がくなつて来た。つい、四五月前迄は楽しい思出として享楽して居た、彼女との恋の発生や、経過などに就いての色々な情景が、今ではもう嫌な不快な記憶として、心の裡に澱んで居た。が、彼は彼女の過去の軽挙を、真正面から叱責したり、又その軽挙に現在の凡ての苦痛を、脊負はせるやうな、態度を見せる訳にも行かなかつた。

彼女は、彼以上に自分の軽挙を悔いて居た。彼から叱責せられる余地のない程、自分で自分の心を責めぬいて居た。

「私の軽はづみから、貴君に迷惑をかけて済まない。」と、彼女は口癖のやうに云つて居た。上京して以来、彼等の生活に少しでも、苦痛の影が射すと、彼女はもう直ぐに自分の軽率を謝して居た。彼が、夫に就いて、口出しが出来ないほど、自分で自分の軽率を謝して居た。

が、その軽はづみと云ふのも、彼女ばかりに脊負はせて置けるものでもなかつた。敬吉の方でも、その軽はづみを心から嬉しく思つた事があつたのだ。生活が今のやうに苦しくならぬ前には、敬吉は彼女の軽はづみを、叱責する心などは少しもなかつたのである。

菊池寛の他の作品