TRENDIA CLASSIC

のんしやらん記録

佐藤春夫

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慈善デー

下層社会――どん底の世界。そんな言葉は今や単に抽象的な表現ではない。具象的なものとして文字どほりに実現された。地下三百メートルにある人間社会の最下層の住宅区(?)(これをしも住宅と呼べるならば!)である。

彼はここに来てから幾日目かの朝を目ざめた。朝といふことがこんな世界でもわかるのが第一に不思議であつた。ラヂオは絶え間なしに明確に響いて来た。しかし、そんなものは生きるためには何の必要もない。欲しいものは空気だ。それから日光だ。それにくらべると食用瓦斯などはずつと後でもいい。(約十世紀ほど以前に、その内容はわかつてゐないが、「早過ぎた埋葬」といふ題で、これらの人間生活の悲惨を予言した文学者があつた。又同じ頃に「もつと光を!」と言ひながら死んだ詩人があつたと伝はつてゐる。多分彼等は賤民文学者の先駆者であつたに違ひない)日光はここでは到底その見込みはなかつたけれども、空気と食用瓦斯とは、最も小さい銀貨が一つづつありさへしたならば、それを自動メーターのなかへ投げ込んで買ふことも出来た。しかし彼は銀貨どころではない銅貨一つ無かつた。どうしたらそれが果して得られるものかさへも知らなかつた。彼はこの社会の生活の様式に就ては少しものみ込んでゐなかつた。ここへ投げ込まれてからそれほどまだ日が浅かつた。それに彼がどんなに声を出して見ても、彼の声は決して少しも響を立てなかつた。(ラヂオがこんなによく響いてゐるにもかかはらずこれは又、何と不思議な事である)さうして彼は何事をも人に質問する方法がなかつた。文字はここでは多分通用しないであらう。何人も知らないに決つてゐた。たとひ皆が知つてゐるにしたところが、何よりも第一にそれを書く可き、又読むべき光線がなかつた。

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