TRENDIA CLASSIC
のんしやらん記
録
佐藤春夫
1 / 32
慈善デー
下層社会――どん底の世界。そんな言葉は今や単に抽象的な表現ではない。具象的なものとして文字どほりに実現された。地下三百メートルにある人間社会の最下層の住宅区(?)(これをしも住宅と呼べるならば!)である。
彼はここに来てから幾日目かの朝を目ざめた。朝といふことがこんな世界でもわかるのが第一に不思議であつた。ラヂオは絶え間なしに明確に響いて来た。しかし、そんなものは生きるためには何の必要もない。欲しいものは空気だ。それから日光だ。それにくらべると食用瓦斯などはずつと後でもいい。(約十世紀ほど以前に、その内容はわかつてゐないが、「早過ぎた埋葬」といふ題で、これらの人間生活の悲惨を予言した文学者があつた。又同じ頃に「もつと光を!」と言ひながら死んだ詩人があつたと伝はつてゐる。多分彼等は賤民文学者の先駆者であつたに違ひない)日光はここでは到底その見込みはなかつたけれども、空気と食用瓦斯とは、最も小さい銀貨が一つづつありさへしたならば、それを自動メーターのなかへ投げ込んで買ふことも出来た。しかし彼は銀貨どころではない銅貨一つ無かつた。どうしたらそれが果して得られるものかさへも知らなかつた。彼はこの社会の生活の様式に就ては少しものみ込んでゐなかつた。ここへ投げ込まれてからそれほどまだ日が浅かつた。それに彼がどんなに声を出して見ても、彼の声は決して少しも響を立てなかつた。(ラヂオがこんなによく響いてゐるにもかかはらずこれは又、何と不思議な事である)さうして彼は何事をも人に質問する方法がなかつた。文字はここでは多分通用しないであらう。何人も知らないに決つてゐた。たとひ皆が知つてゐるにしたところが、何よりも第一にそれを書く可き、又読むべき光線がなかつた。
佐藤春夫の他の作品
TRENDIA CLASSIC
サーベル礼讃
佐藤春夫
サーベル礼讃
佐藤春夫 ・ 約1分
TRENDIA CLASSIC
尊重すべき困つ
た代物
佐藤春夫
尊重すべき困つた代物
佐藤春夫 ・ 約4分
TRENDIA CLASSIC
分身の感あり
佐藤春夫
分身の感あり
佐藤春夫 ・ 約2分
TRENDIA CLASSIC
晶子さんの煙草
正月
佐藤春夫
晶子さんの煙草正月
佐藤春夫
TRENDIA CLASSIC
あじさい
佐藤春夫
あじさい
佐藤春夫
TRENDIA CLASSIC
芥川龍之介を哭
す
佐藤春夫
芥川龍之介を哭す
佐藤春夫
TRENDIA CLASSIC
芥川龍之介を憶
ふ
佐藤春夫
芥川龍之介を憶ふ
佐藤春夫
TRENDIA CLASSIC
井伏鱒二は悪人
なるの説
佐藤春夫
井伏鱒二は悪人なるの説
佐藤春夫
TRENDIA CLASSIC
蝗の大旅行
佐藤春夫
蝗の大旅行
佐藤春夫
TRENDIA CLASSIC
或る文学青年像
佐藤春夫
或る文学青年像
佐藤春夫
TRENDIA CLASSIC
今は亡しわが犀
星
佐藤春夫
今は亡しわが犀星
佐藤春夫
TRENDIA CLASSIC
飲料のはなし
佐藤春夫
飲料のはなし
佐藤春夫