怪奇一夕話
本文約8,700字 ・ 読了時間 約18分
あらすじ(AIが作成しました)
新年や春の季節に怪奇趣味を論じることの難しさを記すとともに、支那を本場とする怪談の起源や歴史的変遷を辿る。孔子や唐の韓退之ら、古今の著名人が怪異に遭遇した実例を挙げながら、支那の「捜神記」を筆頭とする志怪の書の特色に触れる。さらに、日本の幽霊と支那の幽霊の気質の差を比較し、狐や河獺、猫といった動物が人を化かすという伝承の背景にある生物学的特性や観察眼について考察をめぐらせる随筆。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
春の雑誌に何か怪奇趣味の随筆めいたものを書けと命ぜられた。これは難題であると私は思った。
昔も今も新年は陽気なものである。お屠蘇の一杯も飲めば、大抵の弱虫も気が強くなって、さあ矢でも鉄砲でも幽霊でも化物でも何でも来いということになる。怖い物見たさが人間の本能であると云っても、屠蘇気分と新年気分とに圧倒されて、その本能も当分屏息の体である。その時、ミステリアスが何うの、グロテスクが何うのと云ったところで、恐らくまじめに受付けては呉れないであろう。同じグロならマグロの刺身でも持って来いぐらいに叱られるか、岡本もいよいよ老耄したなと笑われるか、二つに一つである。
初春の寄席の高坐で「牡丹燈籠」を口演する者はない。春芝居の舞台に「四谷怪談」を上演した例を知らない。そう考えると、全くこれは難題であると思ったが、一旦引受けた以上、今更逃げるわけにも行かない。私が若い時、狂歌の会に出席すると、席上で「春の化物」という題を出された。これも難題で頗る閉口したが、まあ我慢して左の二首を作った。
春雨にさす唐傘のろくろ首けらけらけらと笑ふ梅が香
執着は娑婆に残んの雪を出でて誰に恨をのべの若草
それでも高点の部に入って、いささか天狗の鼻を高くしたことがある。そこで、これから書く随筆まがいの物も、春は春らしく、前に掲げた狂歌程度で御免を蒙ろうと思う。百物語式の物凄い話は――と云っても、実はそんな怪談を沢山に知っているのでは無い。――秋の雨がそぼそぼと降って、遠寺の鐘がボーンと聞えて来るような時節までお預かりを願って置くことにしたい。
なんと云っても、怪談は支那が本場である。日本に伝来の怪談は畢竟わが国産ではなく、支那大陸からの輸入品が多い、就ては、先ず支那を中心として、日本と外国の怪奇談を少しく語りたい。