常識家の非常識
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あらすじ(AIが作成しました)
詩人が抱く「常識」への畏敬の念が、文芸雑誌による自身の文章への激しい誤読と曲解をきっかけに動揺していく様を綴る。詩人の書く文章は小説的な常識の枠組みでは理解されず、しばしば意図と反する解釈を招くことに気づいた筆者は、文学の本質である「詩」と、常識的聰明さの対立について論じる。常識的批判の限界を指摘し、詩人の精神を理解できない常識的聰明人に対する独自の視点と、今後の文学的態度を表明する論考である。
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僕等の如き所謂詩人が、一般に缺乏してゐるものは「常識」である。この常識の缺乏から、僕等は常に小説家等に輕蔑される。それで僕等自身もまた、その缺點を自覺してゐることから、常に常識的なものに畏敬し、常識學の修養につとめて居る。
この意味から、僕は常に「文藝春秋」を愛讀してゐる。文藝春秋といふ雜誌は、文壇稀れに見る「頭腦の好い雜誌」であつて、編輯がキビキビとして居り、詰將棋の名手を見るやうな痛快さがある。しかしそんなことよりも、この雜誌の特色はその常識學の徹底にある。常識とは何ぞや、常識的精神の價値とは何ぞやといふことを、もし眞に知らうとする人があるならば、先づ文藝春秋を讀むが好い。それで僕は、ずつと前からこの雜誌を「常識のメンタルテスト」として、一種の特別な敬意を表してゐた。丁度僕のこの敬意は、我々詩人が時に小説家に對して抱く所の、或る種の畏敬と同じ性質の者であつた。
所が偶然にも、最近この文藝春秋の記事からして、僕の常識に對する見解に大なる動搖が生じて來た。すくなくとも僕が、從來「常識の價値」を高く買ひかぶりすぎたことに氣がついて來た。と言ふわけは、最近この雜誌の文藝春秋子が、二囘に亙つて書いた僕の毒舌を讀んだからである。もちろん僕は、雜誌の六號記事がゴシツプ的に書く漫罵なので、神經質に抗議する男ではない。此所に言はうとするのはそれでなく、小説家的常識の價値(それを小説家は常に誇つてゐる)が、案外くだらぬ安物にすぎないことを、それによつて始めて知つたからである。