TRENDIA CLASSIC

常識家の非常識

萩原朔太郎

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僕等の如き所謂詩人が、一般に缺乏してゐるものは「常識」である。この常識の缺乏から、僕等は常に小説家等に輕蔑される。それで僕等自身もまた、その缺點を自覺してゐることから、常に常識的なものに畏敬し、常識學の修養につとめて居る。

この意味から、僕は常に「文藝春秋」を愛讀してゐる。文藝春秋といふ雜誌は、文壇稀れに見る「頭腦の好い雜誌」であつて、編輯がキビキビとして居り、詰將棋の名手を見るやうな痛快さがある。しかしそんなことよりも、この雜誌の特色はその常識學の徹底にある。常識とは何ぞや、常識的精神の價値とは何ぞやといふことを、もし眞に知らうとする人があるならば、先づ文藝春秋を讀むが好い。それで僕は、ずつと前からこの雜誌を「常識のメンタルテスト」として、一種の特別な敬意を表してゐた。丁度僕のこの敬意は、我々詩人が時に小説家に對して抱く所の、或る種の畏敬と同じ性質の者であつた。

所が偶然にも、最近この文藝春秋の記事からして、僕の常識に對する見解に大なる動搖が生じて來た。すくなくとも僕が、從來「常識の價値」を高く買ひかぶりすぎたことに氣がついて來た。と言ふわけは、最近この雜誌の文藝春秋子が、二囘に亙つて書いた僕の毒舌を讀んだからである。もちろん僕は、雜誌の六號記事がゴシツプ的に書く漫罵なので、神經質に抗議する男ではない。此所に言はうとするのはそれでなく、小説家的常識の價値(それを小説家は常に誇つてゐる)が、案外くだらぬ安物にすぎないことを、それによつて始めて知つたからである。

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