TRENDIA CLASSIC

奈良の晩春

佐藤春夫

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花はおほかた散りうせて、名にし負ふ八重桜は僅かに残つてゐるけれども、かうなると花ももう汚い。さうして藤にはまだ早い。

さういふ季節の奈良の山のなかを(確かに山中と呼ばなければいけない)われらは月日亭から春日さまの方へ通り抜けて行く。潺湲たる流れがあり、木の間洩る日の光は新鮮である。朗かに幽かな山鳥の声がある。さうしてわれらの外にはとほる人もない。われらといふのは僕の夫妻と、それに谷崎潤一郎である。僕らは彼を案内役にして、汽車の出るまでの三時間ほどを散歩がてらにそこらを見物しようといふのである。僕は以前に二度こゝへ遊んだことがある。妻は始めてゞある。聞けば志賀直哉氏はこゝに永住するつもりで、高畑に四百坪ほどの土地を求め得たさうである。かういふ散歩区を持つことが出来る志賀氏を羨まずにはゐられない。僕も画描きにでもなつて、この土地に住んでみたいやうな気がして来た。

谷崎は春日神社でお神楽を見ようといふ。神楽そのものよりも巫女のなかにひとり、水谷八重子に似たのがゐると聞いてゐるので、谷崎はその美しい巫女を僕たちに見せるつもりであつたらしい。いや、彼自身も噂だけでまだ見たことはないといふのだから、自分でも見たかつたに違ひない。

その巫女といふのは画家某氏のところへ浄瑠璃をならひに来るので、年はまだ若いから、語る文句のなかにエロテイツクなことなどがあつても十分に意を解しない。さうして、熱心に顔の表情を動かしながらそれを語るのが、なか/\風情があるとのことである。

「――それを、志賀氏のところへ酒を持つて来たといふ印度人が嫁に欲しがつてゐるのださうだがね」

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