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TORENDIA

かはたれ時

本文約1,700字 ・ 読了時間 約4分

あらすじ(AIが作成しました)

各地の方言や古語を辿り、日が暮れて人を見分けることが難しくなる「黄昏時」の語源や、その時刻に抱く心理的背景を考察する。雀色時、タソガレ、カハタレといった呼称の由来を紐解き、かつて人々がこの時間をいかに捉えていたか、また衣類の変化や社会情勢が人の視覚的認知にどう影響したかを論じる。夕暮れという不安の対象が、時代を経てどのように人々の意識の中で変容してきたのかを、言語学的な見地から綴る。

柳田國男

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🎧 かはたれ時 / 朗読音声: VOICEVOX:青山龍星

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黄昏を雀色時ということは、誰が言い始めたか知らぬが、日本人でなければこしらえられぬ新語であった。雀の羽がどんな色をしているかなどは、知らぬ者もないようなものの、さてそれを言葉に表わそうとすると、だんだんにぼんやりして来る。これがちょうど又夕方の心持でもあった。すなわち夕方が雀の色をしているゆえに、そう言ったのでないと思われる。古くからの日本語の中にも、この心持は相応によく表われている。例えばタソガレは「誰そ彼は」であり、カハタレは「彼は誰」であった。夜の未明をシノノメといい、さては又イナノメといったのも、あるいはこれと同じことであったかも知れない。

私は今国々の言葉において、日の暮を何というかを尋ねてみようとしている。加賀と能登ではタチアイといい、熊野でマジミというなども深い意味があるらしいが、それはなお私には雀色である。信州では松本の周囲において黄昏をメソメソドキ、少し北へ行くとケソメキともいって、暗くなりかかるという動詞はケソメクである。これも感覚を語音に写す技能と言ってよいと思うが、あの地方では人が顔を合わせ難い事情などがあって、そしらぬふりをして通って行くことを、ケソケソとして行くといっている。越中の山近くの町で、夕方のことをシケシケというのは、しげしげと人を見るというなどが元のようでもあるが、富山の附近の者は気ちがいのことをシカシカといっているから、最初はかえってシカとせぬことをシカシカといったのであろう。曠野集の付句に、

何事を泣きけん髪を振おほひ

しかしか物も言はぬつれなさ

恥かしといやがる馬にかき乗せて

これなどにはまだ少し古い感じが遺っている。

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