TRENDIA CLASSIC

たちあな姫

菊池寛

1 / 14

十一月の終か、十二月の初頃でした。私は、その日珍しく社から早く帰って来ました。退社の時刻は、大抵六時――どんなに早くっても五時だったのですが、其日にかぎって、四時頃に社を出たように思います。

その頃は、江戸川縁の西江戸川町に住んで居ました。琴の師匠の家の部屋を借りて、妻と一緒に暮して居たのです。その日、私は社から帰って来ますと、久し振りで銭湯へ行きました。そして、ゆったりとした気持になりました。夕飯を喰べてしまったのが、七時頃でしたろうか。私は妻を連れて神楽坂へでも、散歩に行こうかと思いました。が、久し振りで湯に入った故か、何となく眠気がさして、此儘床に入って、肩の凝らない雑誌でも、読もうかと云う気にもなりました。丁度その時でした。自転車が、表で止まったかと思いますと「木村さん―電報!」と云う声を、聴きました。

『電報!』と云う声を聴く度に、私はいつも国に居る年の寄った両親の事が、電のように、頭の中に閃くのです。そして『父キトク』だとか『母キトク』などと云う文句が、ハッと胸を衝くのでした。だから、私は電報と云う声を聞いてから、それを受取る迄の短くはあるが、然し不快な焦躁の四五秒が可なり嫌でした。私は、その日も何時もの通り不快なショックを受けながら、配達夫の入って来るのを待ちました。まだ若い配達夫は、表の戸をガタ/\開けたかと思うと、

「木村さん、電話郵便です。」と、云いながら赤い小さい紙片を差出しました。何だ! 電話郵便かと、私は何時も電話郵便の配達夫が、電報の声を僣するのを、不当に思いましたが、それでもそれが電報でなくて電話郵便であるのを知ると、心が急に落着くのを覚えました。一体誰から来た何の用だろうと思いながら私は、その電話郵便を急いで読みました。

菊池寛の他の作品