逆行
本文約11,500字 ・ 読了時間 約24分
あらすじ(AIが作成しました)
死を目前にした老人、落第を控えた学生、異国への憧れを抱く少年という、それぞれ異なる境遇にある者たちの姿を描く。死の床で幻の蝶を見る老人の虚実入り混じった最期、大学の試験場で独自の哲学を回答する学生、見世物小屋の女性に心奪われる少年の切ない記憶など、逆行する時間と記憶の中で展開される孤独や空虚な日常を綴る短編集。
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蝶蝶
老人ではなかつた。二十五歳を越しただけであつた。けれどもやはり老人であつた。ふつうの人の一年一年を、この老人はたつぷり三倍三倍にして暮したのである。二度、自殺をし損つた。そのうちの一度は情死であつた。三度、留置場にぶちこまれた。思想の罪人としてであつた。つひに一篇も賣れなかつたけれど、百篇にあまる小説を書いた。しかし、それはいづれもこの老人の本氣でした仕業ではなかつた。謂はば道草であつた。いまだにこの老人のひしがれた胸をとくとく打ち鳴らし、そのこけた頬をあからめさせるのは、醉ひどれることと、ちがつた女を眺めながらあくなき空想をめぐらすことと、二つであつた。いや、その二つの思ひ出である。ひしがれた胸、こけた頬、それは嘘でなかつた。老人は、この日に死んだのである。老人の永い生涯に於いて、嘘でなかつたのは、生れたことと、死んだことと、二つであつた。死ぬる間際まで嘘を吐いてゐた。
老人は今、病床にある。遊びから受けた病氣であつた。老人には暮しに困らぬほどの財産があつた。けれどもそれは、遊びあるくのには足りない財産であつた。老人は、いま死ぬることを殘念であるとは思はなかつた。ほそぼそとした暮しは、老人には理解できないのである。
ふつうの人間は臨終ちかくなると、おのれの兩のてのひらをまじまじと眺めたり、近親の瞳をぼんやり見あげてゐるものであるが、この老人は、たいてい眼をつぶつてゐた。ぎゆつと固くつぶつてみたり、ゆるくあけて瞼をぷるぷるそよがせてみたり、おとなしくそんなことをしてゐるだけなのである。蝶蝶が見えるといふのであつた。青い蝶や、黒い蝶や、白い蝶や、黄色い蝶や、むらさきの蝶や、水色の蝶や、數千數萬の蝶蝶がすぐ額のうへをいつぱいにむれ飛んでゐるといふのであつた。わざとさういふのであつた。十里とほくは蝶の霞。百萬の羽ばたきの音は、眞晝のあぶの唸りに似てゐた。これは合戰をしてゐるのであらう。翼の粉末が、折れた脚が、眼玉が、觸角が、長い舌が、降るやうに落ちる。