本文へ移動
TORENDIA

冬の蠅

本文約10,000字 ・ 読了時間 約21分

あらすじ(AIが作成しました)

溪間の温泉宿で病の療養を続ける男は、日光浴の際、自身の部屋に棲む弱り切った冬の蠅を眺めることを日課とする。男は太陽の偽瞞に満ちた幸福を憎み、都会へ帰れぬ疲労を抱えながら、鬱屈した日々を送る。ある日、男は衝動的に村を出て遠方の港町まで彷徨う旅に出るが、荒々しい風景に安らぎを得られず宿へ戻る。部屋に帰りついた男は、かつての日課を支えていた蠅が一匹残らず死滅したことに気づき、自身の生をも縛る過酷な条件を再認識する。

梶井基次郎

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 14

冬の蠅とは何か?

よぼよぼと歩いている蠅。指を近づけても逃げない蠅。そして飛べないのかと思っているとやはり飛ぶ蠅。彼らはいったいどこで夏頃の不逞さや憎々しいほどのすばしこさを失って来るのだろう。色は不鮮明に黝んで、翅体は萎縮している。汚い臓物で張り切っていた腹は紙撚のように痩せ細っている。そんな彼らがわれわれの気もつかないような夜具の上などを、いじけ衰えた姿で匍っているのである。

冬から早春にかけて、人は一度ならずそんな蠅を見たにちがいない。それが冬の蠅である。私はいま、この冬私の部屋に棲んでいた彼らから一篇の小説を書こうとしている。

1

冬が来て私は日光浴をやりはじめた。溪間の温泉宿なので日が翳り易い。溪の風景は朝遅くまでは日影のなかに澄んでいる。やっと十時頃溪向こうの山に堰きとめられていた日光が閃々と私の窓を射はじめる。窓を開けて仰ぐと、溪の空は虻や蜂の光点が忙しく飛び交っている。白く輝いた蜘蛛の糸が弓形に膨らんで幾条も幾条も流れてゆく。(その糸の上には、なんという小さな天女! 蜘蛛が乗っているのである。彼らはそうして自分らの身体を溪のこちら岸からあちら岸へ運ぶものらしい。)昆虫。昆虫。初冬といっても彼らの活動は空に織るようである。日光が樫の梢に染まりはじめる。するとその梢からは白い水蒸気のようなものが立ち騰る。霜が溶けるのだろうか。溶けた霜が蒸発するのだろうか。いや、それも昆虫である。微粒子のような羽虫がそんなふうに群がっている。そこへ日が当ったのである。

梶井基次郎の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本