一
房枝の興奮は彼女の顔を蒼白にしていた。こんなことは彼女にとって本当に初めてであった。その出張先が自分の家と同じ露地の中だなんて。彼女は近所の侮蔑的な眼が恐ろしかった。しかもそれが同じ軒並みのすぐ先なのだから。彼女はすぐそのまま自分の家に帰って行く気はしなかった。彼女は日頃から親しくしている小母さんの家へ裏口から這入った。小母さんの家は、雇われて行った家の一軒置いて隣になっていた。小母さんは内職の造花を咲かせていた。
「小母さん! お隣のお隣は、何を職業にしているの?」
「お隣のお隣? 楽そうだろう? 泥棒をしているんだって。」
「泥棒? 厭あな小母さん! そんな職業があるの? 泥棒だなんて……」
房枝は微笑んで袂で打つ真似をした。
「そりゃ、不景気だもの、何だって、出来ることはしなくちゃ。泥棒だって何だって、食って行ける者はいいよ。」
「でも、少しおかしかない? 泥棒だなんて……」
「職業なら、何もおかしいこと無いじゃない? 食って行くためなら、どんなことだって、しなくちゃならない時世なんだもの。」
真面目な顔で小母さんは造花を咲かせ続けた。紫の花。褪紅色の蕾。緑の葉。緋の花。――クレエム・ペエパァの安っぽい造花であった。
「それはそうだけれど、そんなことをしていて掴まらないのかしら?」
「そこが職業だもの。掴まってばかりいたら、職業にならないじゃないの。小父さんなんかも(掴まらなけりゃあ、やるがなあ……)って言っているんだけど、小父さんのような野呂間なんかにはとても出来やしないんだよ。」
「でも、随分変な職業もあるもんね。そりゃ、わたしの職業なんかも、随分変なものには違いないけど……」
「働いてお金を取って来る分に、何だって同じことさ。自分の好きなことばかりしていちゃ、お金にならないんだから。」
「それでは、わたしなんかも、肩身を狭くしていなくたっていいわけね。――じゃ、威張って帰るわ。」
房枝は赤い緒の下駄を持って、裏口から表玄関へ座敷の中を横切った。
「もう帰るの? 遊んで行けばいいのに……」