草の親しみ
本文約2,100字 ・ 読了時間 約5分
あらすじ(AIが作成しました)
野道を急ぐ中、夕立前の空気の中に漂う刈草の匂いを嗅いだ著者は、かつて草と共に育った記憶を回想する。蓬や萱などの草花、そしてそこに潜む虫たちと過ごした幼少時の遊びの日々を綴り、草がもたらす生命の美や力、そして自らの中に根付く草への変わらぬ親しみを論じる。都会育ちとの感覚の違いにも触れつつ、成長を分かち合った存在としての草との離れがたい関係を、雨が降り出す直前のひとときを通じて描き出す。
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一雨夕立が来さうな空模様でした。砂ぼこりの起つ野道を急いでゐると、一人の農夫が気忙はしさうに刈草を掻き集めてゐるのに出会ひました。高い草の匂ひがぷんぷん四辺に散らばつてゐました。それを嗅ぐと私のあゆみは自然に遅くなりました。私は牡牛のやうに大きく鼻の孔を開けて、胸一杯に空気を吸ひ込みました。
言はうやうのないなつかしい草の匂ひ。その前に立つと、私は一瞬のうちに、蓬、萱、野菊、犬蓼、杉菜、露草、すいつぱ――といつたやうな、刈り倒された草の名を珠数つなぎに思ひ浮かべて、それぞれの草の持つてゐる思想を、踏まれても、引きちぎられても、伸びずにはおかないその生命の髄を嗅ぎ知るのみならず、どうかすると、これらの雑草の歯ざはりまで味はひ得たやうな気持がすることがあります。私は生れつき牛の愚鈍と正直と辛抱強さなどと一緒に、牛の嗅覚をも持つてゐるのかも知れません。今一つ牛の持つてゐる大きな胃の腑があつたなら、私は彼等と同じやうに、極端な菜食主義者となつたかも知れません。私は実際さう信じてゐます。
草に対するかうした親みは、どこから来るものでせう。
私にとつて、草はよしそれがどんなに小さい、果敢ないものであつても、それは地に潜んでゐる生命の眼であります。触覚であります。温覚であります。『生命』といふものは、それがどんなに気まぐれな、徒らな表現をとつても、そこには美があり、力があり、光輝があります。よろづの物のなかで、草に現れた生命ほど、謙遜で、素朴で、正直で、そして辛抱強いものはたんとありますまい。草こそは私にとつて『言葉』であります。暫くの間もぢつとしてゐられない不思議な存在であります。蹄がないばかりに、同じところに立ち停つてゐる小さな獣であります。声帯がないばかりに、沈黙を持ち続けてゐる小鳥であります。
しかし、私の草に対する親しみは、それのみに因ることではありません。