艸木虫魚
本文約113,500字 ・ 読了時間 約227分
あらすじ(AIが作成しました)
柚子や唐辛、かまきりや雨蛙といった動植物を題材に、秋の情景とそれらに宿る性格やエピソードを綴る随筆集。果樹や草花の持つ特有の気質を擬人化して描写し、歴史上の人物や逸話を引き合いに出しながら、物事の真の味わいや皮肉な一面、あるいは謙虚な誠実さについて考察を深める。自然界の多様な生き様を通じ、世俗的な価値観や人間の営みを鋭く観察し、それぞれの存在が持つ孤独や矜持を浮き彫りにする作品である。
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柚子
柚の木の梢高く柚子の実のかかっているのを見るときほど、秋のわびしさをしみじみと身に感ずるものはない。豊熟した胸のふくらみを林檎に、軽い憂鬱を柿に、清明を梨に、素朴を栗に授けた秋は、最後に残されたわびしさと苦笑とを柚子に与えている。苦笑はつよい酸味となり、わびしさは高い香気となり、この二つのほかには何物をももっていない柚子の実は、まったく貧しい秋の私生児ながら、一風変った秋の気質は、外のものよりもたっぷりと持ち伝えている。
柚子は世間のすねものである。超絶哲学者の猫が、軒端で日向ぼこりをしながら、どんな思索にふけっていようと、また新聞記者の雀が、路次裏で見た小さな出来事をどんなに大げさに吹聴していようと、彼はそんなことには一向頓着しない。赤く熟しきった太陽が雑木林に落ちて往く夕ぐれ時、隣の柿の木の枝で浮気ものの渡り鳥がはしゃぎちらしているのを見ても、彼は苦笑しながら黙々として頭をふるに過ぎない。そこらの果樹園の林檎が、梨が、柿が、蜜柑が、一つ残さずとりつくされて、どちらをふり向いて見ても、枝に残っているものは自分ひとりしかないのを知っても、彼は依然として苦笑と沈黙とをつづけている。彼は自分の持っているのは、さびしい「わび」の味いで、この味いがあまり世間受けのしないことは、柚子自らもよく知っているのである。
むかし、千利休が飛喜百翁の茶会で西瓜をよばれたことがあった。西瓜には砂糖がかけてあった。利休は砂糖のないところだけを食べた。そして家に帰ると、門人たちにむかって、
「百翁はもっとものがわかっている男だと思っていたのに、案外そうでもなかった。今日西瓜をふるまうのに、わざわざ砂糖をふりかけていたが、西瓜には西瓜の味があるものを、つまらぬことをしたものだ。」
といって笑ったそうだ。もののほんとうの味を味おうとするのが茶人の心がけだとすると、枝に残って朝夕の冷気に苦笑する柚子が、彼等の手につまれて柚味噌となるに何の不思議はない。「わび」を求めてやまない彼等に、こんな香の高い「わび」はないはずであるから。