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TORENDIA

聖書

本文約3,000字 ・ 読了時間 約7分

あらすじ(AIが作成しました)

旗本の血統を引く詩人Kの書斎を訪れた「僕」は、夜店で五銭で買われたという古い聖書を目にする。貴族的な風貌のKと象徴詩への批判を交わし、酒を酌み交わす中で、二人は詩のあり方について語り合う。時折姿を見せる愛らしい女中の存在に心乱されながらも、冥想的な空間で先輩の助言に耳を傾ける「僕」は、自身の見すぼらしさへの自意識や若い女中への淡い想像を抱きつつ、夜の本郷の街を軽やかな足取りで家路へと向かう様子を描く。

生田春月

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🎧 聖書 / 朗読音声: VOICEVOX:もち子さん

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今日来て見ると、Kさんの書卓の上に、ついぞ見なれぬ褐色のきたない三六版ほどの厚い書物が載っていた。

「先生、それは何です?」と訊くと、

「まあ見たまえ」と、ワイルドの『デ・プロフンディス』や、Kさんの大好きなスウィンバアンやアーサア・シモンズの詩集の下から引出して、僕の手に渡してくれた。見るといかにも古色蒼然たるものだ。全部厚革で、製本はひどく堅牢だ。革はところどころはげたり、すりむけたりしている。縁も煤けている。何だかこう漁師町の娘でも見るような気がする。意外に軽い。

無雑作に開いて見ると、これは聖書だった。細い字が隙間なしに植えてある。まんざら漁師町に関係のないこともないと思って、

「聖書ですね」とKさんを見ると、Kさんのその貴族的な、いかにも旗本の血統を承けているらしいすっきりした顔は、微笑にゆるんで、やや得意の色があった。

「掘出し物だ。ヴィクトリア朝のものじゃない、どうしても百年前のものだね」

「へえ」と今更感心して見る。

「夜店で買ったんだ。初め十銭だって云ったが、こんなもの買う人はありゃしない、五銭に負けろと、とうとう五銭で買って来た。さあ、どうしてあんなところにあったものかなァ」

「へえ、五銭……夜店で」と僕は驚いたような声を出した。この貴族的な詩人が五銭で聖書を買っている光景を眼前に描き出して、何とも云えず面白い気持がした。が、そのすぐあとから、自分が毎日敷島を二つ宛喫うことを思出して、惜しいような気がした。何が惜しいのかわからないが、兎に角惜しいような気がする。

むやみにいじくって見る。何やら古い、尊い香がする。――気が付くと、Kさんの話はいつの間にかどしどしイプセンに進んでいた。イプセンと聖書、イプセンは常に聖書だけは座右を離さなかったというから、これもまんざら関係がないでもないと思う。

Kさんが立って呼鈴を押すと、とんとんとんと、いかにも面白そうに調子よく階段を踏んで、女中さんが現れた。僕がこっそり好きな女中さんで、頬っぺたがまるく、目が人形のようにぱっちりしていて、動作がいかにもはきはきしていて、リズミカルだ、さすがに詩人の家の女中さんだと来る度に感心する。

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