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TORENDIA

認識論とは何か

本文約58,100字 ・ 読了時間 約117分

あらすじ(AIが作成しました)

認識という言葉が、日常会話から学術的な場まで広範に使われる状況を検討し、哲学における本来の意義を論じる。科学的体系に限定されがちな認識の定義を、知覚や経験を含めた広い意味で捉え直し、実践的な活動を媒介とする「実践的模写説」を提唱する。さらに、文学主義や文献学主義に陥りがちな日本の伝統的思考を批判し、生産技術と結びついた科学的精神を備えた「思想の科学」としての認識論の重要性を説く。

戸坂潤

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第一章 認識について

認識という言葉は今日では、殆んど完全に日常語となっている。元来日本の哲学用語は、大部分欧米語からの直訳であり、そうでなければ支那語又は支那語訳のサンスクリットからの借用である。後者は歴史的に時間が経っているだけに日本語として、相当熟してはいるが、併しそれが日常語となっているものは、甚だしく滑稽な用途に制限されて了っているとも見られる。例えば往生とか成仏とかである。そしてそれが本格的な意味で使われる時は、何等かの宗派的な礼式としてしか通用しないので、全く通常性を欠いているのだ。だからそういう言葉を日常生活に用いようとなると、実質に於て一種の外国語にしか過ぎない場合の方が多い。日本古来のからぶりばかりではない、おくにぶりの言葉までも、今日日常語として使えばセクト的な印象しか与えない。お歌所的和歌の歌詞が吾々の生活の言葉と全く無関係であるような類である。

幸いに認識という言葉は、殆んど完全に日常語となっている。日本の正義について、日本人及び外国人はもっと認識を持たねばならぬ、などと云われている。或る演説会で、ファッショ学生らしいのが「認識せよ!」と叫ぶのを聞いたこともある。単に認識せよでは、どう考えても滑稽であるが、認識という言葉が日常的に使われた揚句、いつの間にか或る特別な内容の認識のことを意味するようになり、かくて却って、世間にはそのままでは通用しないような宗派的用語とさえなっていることを、吾々は注意しなければならぬ。これは日常的に通用しないことの結果ではなくて、悪く日常的に通用しすぎた結果だ。

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