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TORENDIA

映画芸術と映画

本文約6,000字 ・ 読了時間 約12分

あらすじ(AIが作成しました)

映画芸術を映画の全般であるとみなす一般的な認識に対し、本作は、映画そのものが人間にとって新しい認識手段や機能であることを論じる。芸術映画、文化映画、ニュース映画といった既存のジャンル区分や、文学等の先蹤芸術からの類推を批判的に検討する。その上で、映画の物理的機能や認識上のアブストラクション作用を分析し、映画というメディアが人類の認識理論において果たす役割と可能性を考察する評論である。

戸坂潤

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今日普通映画と呼ばれているものは、大体映画芸術のことである。厳密な意味に於て芸術としての価値があるなしに拘らず、ともかく芸術という部類に入れて然るべき映画を指すのである。勿論「芸術映画」というような意味ばかりではない。尤も例えば「文化映画」というものを芸術映画に対するものと考えることも出来るなら、文化映画は必ずしも映画芸術ではないから、結局芸術映画などが映画芸術の代表者のようなものとなるが、併したれとしても所謂芸術映画だけを以て映画芸術の全般を尽すことの出来ないのは、あたり前である。

私は所謂「文化映画」という観念について、よく理解出来ない点を発見する。之は文化映画――つまり文化的内容を盛った映画――というよりも、寧ろ文化政策の手段としての映画という意義の方を余分に有っているのではないかと思う。而もそれが、所謂「宣伝映画」というような露骨な意図暴露を伴わない処の、そういう意味で初めてそれこそ文化的な映画のことであるようにさえ思われる。そしてその実際の内容から云うと、主な教育材料風のものが多いらしいから一種の「教育映画」ということが出来るかも知れない。ただ教育映画としても修身風の教育目標教育方法ではなくて、科学的理科的教材のものが多いらしいから、一面また「科学映画」であると云っていいかも知れない。一種の教育映画にせよ、又一種の科学映画にせよ、とに角それが文化政策上の線に沿うていることが特色であると考えられるが、併し文化政策として見れば、之は仲々高級な文化政策の観点に立つものと云わねばならぬ。科学映画風の材料などを使って文化的政策を遂行する一助にしようというのは、手近かな文化政策の能くし得る処ではないだろう。

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