鏡心灯語 抄
本文約10,800字 ・ 読了時間 約22分
あらすじ(AIが作成しました)
内省的な生活を送る著者が、固定観念にとらわれない個人の自由と聡明な倫理観について論じる。特に貞操観念を画一的に強いる従来の道徳を批判し、自らの内面的な充実を追求する大切さを説く。また、女性の社会的地位を向上させるには、自らの未熟さを自覚した上での知識や能力の向上が必要であると主張する。あわせて、政治家の素行が社会に与える影響に触れ、民本主義の観点から個々人が生活を律し、社会に関与する姿勢を綴る。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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私は平生他人の議論を読むことの好きな代りに自ら議論することを好まない。議論にはかなり固定した習性がある。即ち議論には論理を一般人の目に見えるように操縦せねばならぬ。また議論の質を表現するのが目的であるにかかわらず、量的にくどくどと細箇条を説明せねばならぬ。それが私に不得手な事であるのみならず、私自身の表現としては煩と迂とに堪えない。それからまた網を作るに忙しくて肝腎の魚を忘れるような場合さえある。むしろ世間の議論の大部分はこの最後の物に属している。私はそれが厭わしい。私はロダン先生の議論――先生においては家常の談話――が常に簡素化され結晶化された無韻詩の体であるのを、私の性癖から敬慕している。私の茲に書く物も私の端的な直観を順序に頓着しないで記述する外はない。
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私の過去十二、三年間の生活は、じっとしていられずに内から外へ踊って出るような生活であった。私は久しく眩しい叙情詩的の気分に浮き立っていた。しかし今は反対に外から内へ還って自分の堅実な立場を踏みしめながら、周囲を自分の上に引き附けて制御したいと思うような生活が開けて来た。以前は内から蒸発する熱情と甘味とを持て余し、自分一人ではいたたまらずに誰にでも凭れ掛りたいような気持でいたのに、今は静かな独自の冥想に無限の愛と哀愁と力とを覚えて、外界の酷薄な圧迫を細々ながらこの全身の支柱に堪えて行こう、更にまた出来ることなら外界を少しでも自分の手の下で鍛え直して見たいというような気持になっている。
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上の空でなくて、真剣に、実際に、そして溌剌として生活しようとする時、人は皆倫理的になる。倫理は人生の律である。実際の行進曲である。人生の楽譜や図解であってはならない。学問や教育を職業とする人々の口にする倫理が我々の実際生活に何の用をもなさないのは当然である。命と肉と熱とを備えた倫理は我々の生活その物であるから。
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