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TORENDIA

文章と言葉と

本文約640字 ・ 読了時間 約2分

あらすじ(AIが作成しました)

筆者は、自身の文章に対する姿勢と、言葉が時代と共に内包する意味の変遷を綴る。文章においては、頭の中にあるものを曖昧にせず、方解石のように明確に記述することを目指す。また、言葉については「神」という語が時代により想起させる姿を変化させていることを指摘し、古典の句を引用しながら、文章の持つ力が時を経てどのように変遷していくのかを考察する一冊である。

芥川龍之介

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🎧 文章と言葉と / 朗読音声: VOICEVOX:玄野武宏

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文章

僕に「文章に凝りすぎる。さう凝るな」といふ友だちがある。僕は別段必要以上に文章に凝つた覚えはない。文章は何よりもはつきり書きたい。頭の中にあるものをはつきり文章に現したい。僕は只それだけを心がけてゐる。それだけでもペンを持つて見ると、滅多にすらすら行つたことはない。必ずごたごたした文章を書いてゐる。僕の文章上の苦心といふのは(もし苦心といひ得るとすれば)そこをはつきりさせるだけである。他人の文章に対する注文も僕自身に対するのと同じことである。はつきりしない文章にはどうしても感心することは出来ない。少くとも好きになることは出来ない。つまり僕は文章上のアポロ主義を奉ずるものである。

僕は誰に何といはれても、方解石のやうにはつきりした、曖昧を許さぬ文章を書きたい。

言葉

五十年前の日本人は「神」といふ言葉を聞いた時、大抵髪をみづらに結ひ、首のまはりに勾玉をかけた男女の姿を感じたものである。しかし今日の日本人は――少くとも今日の青年は大抵長ながと顋髯をのばした西洋人を感じてゐるらしい。言葉は同じ「神」である。が、心に浮かぶ姿はこの位すでに変遷してゐる。

なほ見たし花に明け行く神の顔(葛城山)

僕はいつか小宮さんとかういふ芭蕉の句を論じあつた。子規居士の考へる所によれば、この句は諧謔を弄したものである。僕もその説に異存はない。しかし小宮さんはどうしても荘厳な句だと主張してゐた。画力は五百年、書力は八百年に尽きるさうである。文章の力の尽きるのは何百年位かかるものであらう?

完

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